日本歴史地名大系 「川上村」の解説
川上村
かわかみむら
萩城下の南東の山間部に位置する。村内中央北寄りを阿武川が西流する。北は
寛永三年(一六二六)の熊野帳に椿東西の内として「川上」の名がみえるのが早く、古くは椿郷の枝郷であった。元禄一二年(一六九九)の郷帳に椿村枝郷として「のとろ村・ゑひね村・川上村」とみえる。「地下上申」で川上村は一村として独立、村内の小村として立野・山田・横坂・足山・灰福・遠谷・杣木谷・藤蔵・高瀬・江船・野戸呂があった。総石高は三千二一九石余で家数五七二軒、人数二千四九七人であった。
「注進案」によれば、総田畠町数四一三町余で、総石高三千二五九石余、うち蔵入が三千一九一石余、諸給領六八石余。家数八二六、人口三千七三八人。
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみそん
- 岡山県:真庭郡
- 川上村
郡の北西端、
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
- 奈良県:吉野郡
- 川上村
郡の北東部を占める。北は東吉野村・吉野町、西は黒滝村・
川上村
かわうえむら
川上川上流にあり、南は
川上村
かわかみむら
- 山口県:徳山市
- 川上村
永禄三年(一五六〇)九月二四日付の乃美元信に対する毛利元就の知行状(「閥閲録」所収浦四郎兵衛家文書)に「富田之内河上之事、為給地進之置候」とあり、富田郷(富田保)に含まれる地であったことが知られる。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳では中野を含めた河上村石高三〇八石六斗九合とあり、同一五年の検地帳では河上村・中野として総石高五三八石余、うち田方が二九町余で四〇三石余、畠方が三〇町余で八〇石余、百姓屋敷七二とある。
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
- 長野県:南佐久郡
- 川上村
南佐久郡の南東端の村。東は群馬・埼玉両県に峰境で接し、南は山梨県、西は
天正二年(一五七四)の大井文書に「平賀之事」とある一二郷中に、南阿江木郷など五郷とともに「川上郷」の名がある。また慶長一一年(一六〇六)幕府による、甲斐国
川上村
はーみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわうえむら
- 岐阜県:恵那郡
- 川上村
三方を山に囲まれ、北端の
川上村
かわかみむら
- 山口県:宇部市
- 川上村
慶長五年(一六〇〇)の検地帳では「河上村」とあり、同一五年の検地帳では「川上村」として総石高三四六石余、うち田二一町余で三〇五石余、畠五町余で二七石余、百姓屋敷三一、小物成二石余と記す。
寛永二年(一六二五)八月一三日付の福原家文書にある御配所付立では「三百弐拾弐石六升五合 同郡河上村」とあって、福原氏が毛利氏から領地として与えられている。
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
- 新潟県:新井市
- 川上村
通称
川上村
かわかみそん
- 山口県:阿武郡
- 川上村
阿武郡の南西部に位置し、北西は萩市、北東は
山間に位置するため林業が盛んで、とくに杉の単純植栽の総面積は二千五〇〇町歩を超すといわれる。
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
南流する
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かおれむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
- 愛知県:新城市
- 川上村
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
川上村
かわかみむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報