日本歴史地名大系 「荒尾市」の解説 荒尾市あらおし 面積:五八・〇一平方キロ県の北西部に位置し、西は有明海に面する。東は県立公園小岱(しようだい)山を境として玉名(たまな)郡南関(なんかん)町と玉名市、北は福岡県大牟田(おおむた)市、南は玉名郡長洲(ながす)町・岱明(たいめい)町に接する。市制施行までは玉名郡に属した。市域は小岱山(五〇一・四メートル)西麓より西へ延びる丘陵性台地と、北部の関(せき)川(諏訪川)沿いの沖積平野、中央部を南西流する菜切(なきり)川、西部を南流する浦(うら)川流域の沖積平野や有明海沿岸の干拓地・埋立地よりなる。海岸沿いを鹿児島本線が、東南から北西に国道二〇八号が通る。市名は昭和一七年(一九四二)市成立の際に中核となった荒尾町による。荒尾は康暦元年(一三七九)六月一日の詫磨寂祐譲状(詫摩文書)に「野原のさいかう(西郷)とミまろ名内、あう(ら)をの田畠屋敷等事」とあり、野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)には「あらお」「荒尾」とみえ、近世の荒尾村に継承された。〔原始・古代〕先土器期の遺物は小岱山西麓の平山(ひらやま)字宿(しゆく)で細石核・細石刃・礫器・剥片が表面採集されている。また平山十輪寺(じゆうりんじ)遺跡では縄文早期の押型文土器とともに粗造な打製石器が発見された。縄文中期の市域の海岸線は標高五メートルの線と考えられ、この旧海岸線に近い台地端に小貝塚が点在する。それらのうち、四(よ)ッ山(やま)・境崎(さかいざき)・宮内(くない)の各貝塚は後期から晩期のもので、ともに御領式土器を出土。出土の貝種はウバガイが最も多く、ニシ、ハイガイなど海産の貝で、有明海に依存した採集生活を示している。弥生期の遺跡は、有明海に面した増永(ますなが)台地に中期の杉谷(すぎたに)・門前(もんのまえ)、内陸部に入った浦川流域の台地縁辺には中期の鐘撞(かねつき)、後期の亀島(かめしま)・大門口(だいもんぐち)、終末期の扇浦(おぎのうら)などがある。これらの分布から弥生期の農耕が湧水の多い浦や浜の無塩害の地で、小規模に行われていたと推察されている。古墳は内陸部の流域平野を望む台地に多くみられる。諏訪(すわ)川流域を望む田倉(たくら)台地には五世紀前半に比定される別当塚(べつとうつか)古墳群・狐塚(きつねつか)古墳群などがあり、対岸の台地には武装石人を伴う全長約四〇メートルの前方後円墳三の宮(さんのみや)古墳がある。近くには国指定史跡の装飾墳萩尾(はぎのお)古墳(大牟田市)があり、諏訪川河口の四ッ山丘陵頂上の四ッ山古墳には玄室にコンパスを使用した円文が描かれている。菜切川の左岸台地には、野原(のばら)古墳群・野原八幡古墳群、赤田(あかだ)一帯の赤田池古墳・狐谷(きつねだに)古墳群・山の神(やまのかみ)古墳があり、浦川流域の台地には屋形山(やかたやま)(通称オカチ山)古墳群などがある。小岱山中腹から山麓にかけて約三〇ヵ所の製鉄遺跡が発見されており、小岱山製鉄跡群として県史跡に指定されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荒尾市」の意味・わかりやすい解説 荒尾〔市〕あらお 熊本県北西部,福岡県境にあり,有明海に臨む市。1942年荒尾町と平井村,有明村,八幡村,府本村の 4村が合体して市制。1955年清里村の一部を編入。北側は福岡県大牟田市と市街地を接し,連接都市を形成。明治中期までは一寒村であったが,1897年三池炭鉱万田坑の開鉱により発展し,1918年四山坑の開鉱により大炭鉱町となる。1940年からは陸軍造兵廠や三井染料工場の進出などで重化学工業都市に発展。第2次世界大戦後,軍需工業は紡績,製網(ノリ網),化学などの製造業に変わった。1951年には万田坑,1953年には四山坑が閉鎖。周辺の農業地域では昔からのナシに加えてミカン栽培が盛んになった。有明海沿岸ではノリを養殖。グリーンランド,野原八幡宮,運動公園などがある。市域の一部は,小岱山県立自然公園に属する。三池炭鉱万田坑は国指定重要文化財および史跡で,2015年世界遺産の文化遺産に登録された。海岸沿いに JR鹿児島本線,国道384号線,荒尾市街地から内陸に向かって国道208号線が延びる。面積 57.37km2。人口 5万832(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by