外浦湊(読み)とのうらみなと

日本歴史地名大系 「外浦湊」の解説

外浦湊
とのうらみなと

現在の南郷町の東部、日向灘に突き出た観音かんのん崎に抱かれ、南東に湾口を開く外浦(外浦湾)に発達した湊。古くは飫肥おび湊ともいい、九州有数の湊として知られ、伝承によると七―八世紀には遣唐使船の風待湊であったともいう。中世には大陸交易の基地として栄え、一六世紀には南蛮船も来航したと考えられる。江戸時代、湾奥の沖積地が干拓されたため湊津としての機能が低下、日向南部最良の湊という地位は北の油津あぶらつ(現日南市)に譲ったが、同湊などとともに飫肥領四浦の一つに数えられ、引続き賑いをみせた。なお「日向地誌」などに記載される伝承によると、干拓が進められる以前、外浦は津屋野つやの村や下方しもかた(現日南市)辺りまで湾入していて、南郷川は津屋野で外浦に注ぎ、下方村の南部やなか村は島嶼であったともいう。干拓後の外浦は中村・潟上かたがみ村・贄波にえなみ村などに取囲まれていたが、外浦湊とよばれて繁栄したのは潟上村地浦じうら(西岸)と中村の栄松くだりまつ(東岸)が中心であった。江戸時代、栄松には外浦湊一円を管轄した外浦地頭が配置され(郡行政)、元禄一四年(一七〇一)の飫肥領国絵図控(日南市蔵)や文化七年(一八一〇)の浦絵図(同市蔵)によると、栄松の岬に津口番所が置かれている。「日向地誌」によると栄松は戸数六三、地浦は戸数一〇一。

〔中世―近世初頭〕

文明元年(一四六九)六月頃中国寧波を出帆した遣明船は周防の大内氏の落取をおそれて九州の南から四国土佐を経由する航路をとった(「大乗院寺社雑事記」同年八月一三日条)。その後の遣明船の航路などからみて、先の遣明船はおそらく当湊(あるいは油津湊)を経由していたものと思われる。永正一〇年(一五一三)と推定される七月一九日の大友義長書状(岐部文書)によると、渡唐二号船(遣明船)の帰朝に際し、中乗(水先案内)と船頭の間で喧嘩となり、船は「日州外浦」に留置かれた。このため豊後国守護大友義長(二号船の経営者と思われる)は警固の船を準備するよう櫛来藤九郎に命じている。なお同年と思われる六月二三日の島津忠朝書状(豊州秀久系図)によれば二号船は忠朝の支配する津に着岸、警固を命じられた忠朝が了承の旨を寺町石見守に返答しており、当時、当浦は豊州家島津忠朝の支配下にあったと思われる。永正一七年八月、幕府遣明使瑞佐は遣明船の航路確保を意図して日向に下向、当浦の小月庵主永厳蔵主や、求められて道載と名付けた当地の住人と漢詩をやりとりしている(日下一木集)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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