日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポルトガル」の意味・わかりやすい解説
ポルトガル
ぽるとがる
Portuguese Republic 英語
República Portuguesa ポルトガル語
ヨーロッパ大陸南西部、イベリア半島西端に位置する共和国。正式名称はポルトガル共和国República Portuguesa。大西洋に面し、アゾレス諸島およびマデイラ諸島を自国領に含む。本土とアゾレス、マデイラをあわせ面積9万2090平方キロメートル、人口1035万6117(2001センサス)、1058万4000(2006推計)。人口密度は1平方キロメートル当り115人。首都はリスボン。国名はローマ時代のドーロ川河口付近にあった植民地ポルトゥス・カレPortus Cale(現在のポルト市)に由来する。国旗は緑と赤の地に国家の紋章をあしらう。12世紀から13世紀にかけてイスラム勢力と角逐し、1297年ほぼ現在の国境を確定した。その意味でヨーロッパでもっとも古い国の一つである。国際的には国連、OECD(経済協力開発機構)、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)、IEA(国際エネルギー機関)、EU(ヨーロッパ連合)などのメンバーである。海外との結び付きが伝統的に強く、大航海時代以降積極的な海外進出を行った。歴史的には隣国スペインのほか、イギリス、ブラジル、南部アフリカ諸国と関連が深い。西ヨーロッパで国民所得が低い国の一つで、海外への移民が多い。
[田辺 裕・柴田匡平]
自然
地質
地質系統はほぼスペインの延長である。北部ミーニョ地方は火山性変成岩や貫入岩よりなり、断層や温泉がみられる。テージョ川(スペイン名タホ川)以北の東部国境から南西に延びる山塊はいずれもメセタの西縁部をなし、珪土(けいど)層で花崗(かこう)岩や頁(けつ)岩よりなる。南部メセタ西縁をなすアルト・アレンテージョもほぼ同様の地質だが、標高は200メートルまで下がる。ベイラ・リトラルおよびエストレマドゥーラの沿岸部は三畳紀系の砂岩よりなる。そしてテージョ川とサード川による沖積平野が南西部の低地を形成している。
[田辺 裕・柴田匡平]
地形
イベリア半島中央部を西流するテージョ川以北のポルトガルは起伏の激しい山岳性だが、南部は平野と低い台地よりなっており、起伏は穏やかである。北部の山塊は1000メートル級のものが多く、最高はエストレーラ山脈の主峰エストレーラ山の1991メートル。主要河川はドーロ川(スペイン名ドゥエロ川)とテージョ川で、いずれもスペインから流れている。北部ポルトガルでは河川は北東から南西に向かうが、南部では、アルト・アレンテージョからカルデイラン山地にかけての起伏のために、河川は南東から北西に流れる。
[田辺 裕・柴田匡平]
気候
ポルトガル本土は温帯に属し、気候は全般に穏やかである。北部の冬は北大西洋低気圧が卓越し、メセタやシベリアの高気圧が強いときには気温が下がる。北東の山岳部やエストレーラ山地には降雪もみられるが、強烈に冷え込むことはまれである。南西部は海洋性西岸型に近い地中海性気候で、夏は乾燥し冬に降水がある。南端部は、アフリカの影響で、高温に達することがある。年平均気温は16℃、最高平均気温22℃程度、最低平均気温も最寒のブラガンサで6.2℃である。年降水量はミーニョ地方で1000~2000ミリメートル、リスボンで700ミリメートル弱。
[田辺 裕・柴田匡平]
生物相
ポルトガルの植物種の約3分の2はヨーロッパの他地域と共通し、残りがイベリアおよびアフリカ系である。テージョ川の南北で植物相はかなり明確に区分される。北部山岳地帯はマツやカシが多く、クリやニレもみられる。南部ではコルクガシ、モチノキ、アーモンド、イチジクが目だつ。オリーブは中部から北部にかけて、ドーロ河谷に広く分布する。山岳部には野生のヤギやシカが生息するが、独自の種はほとんどない。魚貝類が豊富なほか、渡り鳥も数多くみられる。スペインと異なり緑の樹木と野原を彩る野花が美しい。
[田辺 裕・柴田匡平]
地誌
ミーニョおよびドーロ・リトラル地方は山岳部でユーカリやマツの森が点在し、ブドウ栽培が盛んで年二度の収穫を得ることもある。ブドウは未熟成酒(アルコール度が低くやや辛口)の原料。ポルトからドーロ川沿いは水利開発が進められており、工業地帯の性格を備えている。
トラズ・オス・モンテスおよびアルト・ドーロ地方はメセタ西端にあたり、高原上は植生が貧弱で集落もまばらである。しかし深くえぐれた河谷部では畑作が営まれ、棚状の耕作地でオリーブ、イチジクとともに、ポートワインの原料となるブドウの栽培が盛んである。トラズ・オス・モンテスの中心地ビラ・レアルの郊外では有名なロゼ・ワインの銘柄「マテウス」を産する。
ベイラ・リトラル地方は低地で水路が発達し、砂地には松林がみられる。内陸では小麦やトウモロコシが栽培され、オリーブやブドウが植えられている。
ベイラ・アルタとベイラ・バイシャ地方はイベリア中央部からの山塊延長部で、山岳部の草地では牧羊が営まれている。人口が集中するのはモンデーゴ川およびゼゼレ川の沿岸である。モンデーゴ河谷では甘味の強い赤ワインを産する。この地方はポルトガルとスペイン確執の舞台であったため、城壁に囲まれた集落もみられる。
リスボンを中心とするエストレマドゥーラ地方、とくにナザレ付近は美しい砂浜で知られる。ナザレからセトゥーバルにかけてはマツやユーカリの林に挟まれて麦やオリーブが栽培されており、北部に比べ集約性が高く規模も大きくなる。リスボン付近は政治、経済、文化の中心地である。
リバテージョはテージョ川沿岸を意味し、右岸ではオリーブを主にブドウと野菜の同時栽培が行われているのに対し、左岸には小麦とオリーブの大規模農場が連なる。テージョ川下流では稲作のほか牧畜も盛ん。
ポルトガル南部の大部分を占めるアルト・アレンテージョとバイショ・アレンテージョの景観は北部と対照をなす。この地方はポルトガルの穀倉で小麦畑が広がる。大土地所有制が1974年のクーデターで崩れ、農地解放の動きがもっとも激しかったが、集団農場経営は見直しが進められており、灌漑(かんがい)や土壌改良に力が注がれている。サード川流域は水田におけるイネの栽培が盛んでユーカリもみられる。
ポルトガルの最南端に位置するアルガルベ地方はアレンテージョ地方とは低い丘陵地で隔てられ、アーモンド、イチジクなどの栽培加工が盛んであり、ゼラニウム等の花卉(かき)、綿花、イナゴマメなどの園芸農業も行われている。建物は地中海風に白っぽくなり、北部のくすんだ色調と対照的である。アラブの影響を強く受けた地方でもある。沿岸はマグロの回遊海域で漁港が多く、漁業と缶詰工業が盛んであるが、夏涼しく冬暖かいので、外国人を対象とする観光リゾート地帯となっている。
[田辺 裕・柴田匡平]
歴史
建国まで
現在のポルトガル領に相当する地域の先住民はイベロとよばれるが、彼らは紀元前7世紀から半島に侵入してきたケルト人と混血し、前3世紀末からは古代ローマ文明の圧倒的な影響を受ける。先住民の言語にかわってラテン語が話され、キリスト教が広まり、南北を貫いて建設された道路はそれまで孤立していた各地域を結び付けた。しかし、ローマ帝国の衰退とともに北方から入ってきたゲルマン人はブラガにスエビ王国を築いたが、紀元後6世紀中葉西ゴート王国に併合された。
711年北アフリカから侵入してきたイスラム教徒によって半島の大半は約8世紀間支配されることになる。まもなく半島北部から始まったレコンキスタはレオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世の下に大きく進展した。1096年フランスの騎士アンリ・ド・ブルゴーニュは、アルフォンソ6世からミーニョ川とドーロ川間のポルトカレ伯領を譲渡され、その子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世Afonso Ⅰ、1109?―1185、在位1139~1185)は、1143年レオン・カスティーリャから独立しコインブラを都にポルトガル王国を建国した。その後も歴代の国王はレコンキスタを続け、13世紀中葉には地中海に到達する。ディニス王の治世(1279~1325)下には国内の植民活動が進み、トルーバドゥール文化が花開いた。
[金七紀男]
繁栄の時代
しかし、14世紀中葉からペスト、対カスティーリャ戦争によりポルトガルは深刻な社会的・経済的危機にみまわれ、1383年には王位継承問題に端を発して国内は親カスティーリャ派と独立派に二分され、1385年勝利を収めた独立派はジョアン1世を国王に選定し、アビス王朝が開かれた。海商ブルジョアジーに支援されたアビス王朝は海外進出政策をとる。ジョアン1世の子エンリケ航海王子は西アフリカ探検を指揮し、1498年バスコ・ダ・ガマはインド航路発見に成功した。アジアの香料は海路直接ヨーロッパに輸入され、リスボンは未曽有(みぞう)の繁栄を遂げた。ポルトガル人はインドのゴアに東洋支配の拠点を築いて通商圏を拡大し、イエズス会を通じてキリスト教を布教した。彼らは1543年ヨーロッパ人として初めて日本を訪れ、南蛮文化をもたらした。しかしながら、その繁栄は早くも16世紀中葉には陰りがみえ始め、1580年にはスペインに併合される。
[金七紀男]
イギリスへの従属
1640年スペインからの再独立を成し遂げたジョアン4世はブラガンサ王朝を開いたが、スペインからの独立を守るためにイギリスへの従属を深めていく。インド香料交易を失ったポルトガルは、17世紀にブラジルに砂糖産業を発展させ、18世紀にはブラジルで大量に採掘された金によって大きな富を得たが、その富の大半は国外に流出した。
ジョゼ1世José Ⅰ(1714―1777、在位1750~1777)の下で独裁的政治を行ったポンバル侯はこの衰退に歯止めをかけ、18世紀末葉にはかなりの繁栄を回復できたが、1807年ナポレオン軍の侵略と半島戦争でポルトガルはふたたび危機に陥った。王室をブラジルに逃避させたイギリスはそのブラジル市場に大きな特権を付与された。ブラジルという独占市場を失った本国のブルジョアジーは、1820年自由主義革命に成功し、立憲王政を確立する。1834年絶対主義勢力との戦いに勝利を収めた商業ブルジョアジーは、国有財産として没収された教会領を購入することによって農業ブルジョアジーに転化するとともに旧貴族との妥協を図ったために封建的構造は存続する結果となった。ポルトガルは、農産物をイギリスに輸出し同国の工業製品を輸入することによってイギリス自由貿易主義体制に組み込まれる。
[金七紀男]
共和革命からサラザール独裁へ
1851年以降、刷新党と進歩党による二大政党政治の下で政情は安定し、「刷新」という名の近代化が進められた。しかし、1870年代の不況で対英輸出が行き詰まると、新たに活路をアフリカ植民地に求めてアンゴラとモザンビークを結ぶ領土の拡大を図った。この政策は、アフリカ縦断政策を進めるイギリスの強硬な反対にあい、ポルトガルは英政府の最後通牒(つうちょう)の受諾を余儀なくされたため、王党政府は国民の信頼を失い、おりからの財政危機、政情不安から1910年10月リスボンで共和革命が成功し、国王はイギリスに亡命した。
この革命は都市の中産階層に支持され、アフォンソ・コスタ(1871―1937)らの共和主義者は政教分離、離婚法の承認など反教権主義的な政策をとったが、まもなく共和党は分裂し、第一共和政16年間を特徴づける政情不安が始まった。第一次世界大戦に参戦した1917年12月、右派軍人のシドニオ・パイス(1872―1918)はクーデターにより政権を奪取し、そのカリスマ的人気を利用して翌1918年には大統領に選出された。しかし、パイスは同年12月リスボンで暗殺され、北部では王党派が王政を宣言するなど政情不安はその極に達し、戦後の経済危機、労働攻勢が重なって第一共和政は完全に行き詰まっていた。
1926年5月、右派軍人によるクーデターが再度成功し、将軍カルモナAntónio Óscar de Fragoso Carmona(1869―1951)は強権政治を行って秩序の回復を図るとともに、深刻な財政危機克服のためにコインブラ大学教授オリベイラ・サラザールを蔵相に招聘(しょうへい)した。サラザールは1年足らずで積年の財政赤字を解消し、1932年には資本家=地主、教会、軍部、カトリック知識人などの右翼勢力に支持されて首相に就任した。翌1933年、組合主義的「新国家」体制を樹立し、1936年のスペイン内戦以降ファシズムに傾斜していく。第二次世界大戦では中立を守り、大戦後もその巧妙な外交政策と強権政治により独裁体制を維持、強化した。
[金七紀男]
民主体制への復帰
しかしながら、その独裁体制は、1961年からアフリカ植民地に始まった独立解放戦争によって揺らぎ始める。1968年サラザールは引退し、かわってマルセロ・カエタノMarcelo Caetano(1906―1980)が首相に就任するが、1974年4月25日、植民地戦争の最前線で戦ってきた若手将校がクーデターを起こし、半世紀近い独裁体制は崩壊した。左翼軍事政権はアンゴラ、モザンビークなどの植民地の独立を承認し、基幹産業の国有化、農地改革を断行した。クーデターの成功により、同年5月アントニオ・スピノラが大統領に就任したが、左翼急進主義と衝突して9月に辞任。後任にコスタ・ゴメスFrancisco da Costa Gomes(1914―2001)が就任した。1976年の民政移管後、新たに共和国憲法が公布され、ポルトガルは半世紀ぶりに民主体制に復帰した。
[金七紀男]
政治
政治制度
共和制をとる。1974年のクーデターを経て1976年に社会主義的な色彩をもつ新憲法が制定された。以来政権は1986年までの12年間で16を数え、不安定であった。1985年10月の総選挙で社会民主党(PSD)のアニバル・カバコ・シルバAníbal Cavaco Silva(1939― )が首相になり、翌年、社会党(PS)のマリオ・ソアレス前首相が60年ぶりに文民の大統領(5年任期で直接選挙)となって以来、政治情勢は沈静化していった。1996年には、PSのジョルジェ・サンパイオJorge Sampãio(1939―2021)が大統領となり、同時に10年ぶりにPS書記長のアントニオ・グテレスAntónio Guterres(1949― )を首相に指名した。2001年サンパイオは大統領に再選。2002年3月の総選挙では、PSDと民衆党(PP)の中道右派連立政権が成立し、PSDの党首ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾJosé Manuel Duaro Barroso(1956― )が首相に就任。2004年7月バローゾがEU委員長に選任され首相を辞任したため、後任にはPSDのペドロ・サンタナ・ロペスPedro Santana Lopes(1956― )が就任した。その後、2005年2月の総選挙ではPSが単独過半数を獲得して勝利し、PSの党首ジョゼ・ソクラテスJose Socrates(1957― )が首相に指名されたが、2006年2月の大統領選挙では、PSDとPPの支持を得たカバコ・シルバAníbal Cavaco Silva(1939― )が当選。民主化後、初の右派系出身の大統領が誕生した。
共和国議会(任期4年、定数は180以上、230以下と規定され、現在は230)は比例代表制で、選挙権は18歳以上の男女に与えられる。公共企業と民間企業の協調を進めるPSと、基幹産業の国有化と国家の財政的介入の必要を強調するPSDは、互いに政権を争いつつ、ときには協力しあっている。
[田辺 裕・柴田匡平]
地方行政
ポルトガル本土には18の行政区があり、政府の任命する知事が首長となる。行政区はさらに約300の市町村に分かれ、住民が市町村議会議員を選出する。そして市町村議会は行政を担当する委員会を選出する。ほかに市町村レベルで商工委員会や審議会が設けられる。本土と離れたアゾレスおよびマデイラには1976年、ある程度の自治権が認められたが、共和国内にとどまっている。
[田辺 裕・柴田匡平]
外交
サラザールの独裁政権は、第二次世界大戦直後、東西両陣営からファシスト的と目されたものの、冷戦に伴い1949年にNATO(ナトー)に迎えられて西側の一員となり、1955年には国連に加盟した。1960年代後半からアンゴラやモザンビークで独立戦争が激化・泥沼化してポルトガルは国際的な孤立を深めた。1974年のクーデター後、アフリカ植民地の独立容認、共産圏への接近など慌ただしい外交が展開されたが、基本的には西側陣営に属し続けてきた。1986年1月にはEC(ヨーロッパ共同体)に正式加盟、ECがEUに移行後、1992年12月にはEU条約を批准した。その一方、クーデター後にもちあがったかつての植民地東チモール問題ではインドネシアと長年対立状態にあり、1995年以降は何度か協議をもった。ポルトガルは西ヨーロッパ諸国や国連とともにインドネシアによる東チモール併合を非難していたが、1999年10月インドネシアは東チモールの分離を認めた。なお、1996年ポルトガル語を公用語とする国による国際協力組織、ポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、東チモールは独立後の2002年に加盟した。CPLPの加盟国はポルトガル、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、ギニア・ビサウ、サントメ・プリンシペ、カーボベルデ、東チモールの8か国(2009)。本部はリスボンに置かれている。
[田辺 裕・柴田匡平]
防衛
陸海空の三軍を有し、国防省が統轄する。以前は20歳以上の男子は2年間の兵役を義務づけられており、延長もしくは他の公務をもって代替も可能であったが、2004年11月からは完全志願兵制に移行した。NATOの一員としてイベリア大西洋司令部が駐するほか、弾薬貯蔵施設や通信施設を提供している。また大西洋の要衝アゾレス諸島中のテルセイラ島にあるラージェス軍事空港をアメリカ合衆国空軍に使用させている。2005年の兵力は陸軍2万2400、海軍1万4104、空軍8900。
[田辺 裕・柴田匡平]
経済・産業
構造的特徴
1974年のクーデター以降、海外領の喪失、企業国有化、南部での性急な農地解放などの影響でポルトガル経済は急激に悪化した。IMF(国際通貨基金)の緊急融資(1977)に続く思いきった緊縮政策の結果、1985年ごろからは経済指標が上向いた。インフレ率は1980年代なかばから1990年代初頭にかけ、年10%台の平均値であり、そのためGDP(国内総生産)の伸び率は一桁(けた)台前半にとどまった。1990年代に入りインフレは鎮静化し、1996年には3%台となった。2007年現在、1.7%である。これに伴いGDPの伸びも回復しつつある。労働力人口の1割が農業従事者だが、GDPの5%弱を生産するにすぎず、自給できない状態である。製造業はGDPの約30%を占めるが、国内市場が狭隘(きょうあい)な点が問題である。海外移民からの送金が国際収支に大きな役割を果たすのが特徴である。
[田辺 裕・柴田匡平]
資源
推定埋蔵量は石炭(無煙炭)1900万トン、褐炭3700万トン、ウラニウム8200トン、銅鉱3200万トン。世界有数のタングステン産出国で、2001年の生産量は約700トン。主産地はパナスケイラ。ウランは1963年から開発され、主産地はビゼウ南方のウルゲイリサ。エネルギー自給の向上を目ざし、カバド、ドーロ、ゼゼレ、テージョなどの河川で水力発電が行われており、発電能力の3割を水力が占める。原子力発電所はない。また、二酸化炭素の排出量を削減するために太陽光発電に力を入れている。
[田辺 裕・柴田匡平]
農林業
西ヨーロッパでもっとも生産性が低いといわれる。基盤整備の立ち遅れに加え、クーデター後の南部での農地解放・集団化に伴う混乱や1990年代初めの干魃(かんばつ)が原因である。北部では平均耕地面積が5.7ヘクタール程度しかなく、零細な経営が多い。主要作物は小麦、トウモロコシ等の穀類やジャガイモ、ブドウ、オリーブなど。牧畜は加工肉を輸出するが、比重はあまり高くない。林業は19世紀後半から重視され、コルクがとくに重要な産品。
[田辺 裕・柴田匡平]
水産業
海産物に恵まれ、食生活の大きな比重を占める。マトジニョス、セトゥーバルのほか、アルガルベ地方も主要な水揚げ地である。種類は甚だ豊富だが、沿岸漁業ではイワシ(缶詰にして輸出される)、遠洋漁業(ニューファンドランドおよびグリーンランド近海で操業)ではタラが主である。2001年の漁獲高19万1214トン。
[田辺 裕・柴田匡平]
鉱工業
1975年にセメント、石油化学、造船、発電などの基幹産業が国営化された。鉱業ではタングステンやウランが有名だが、全体的にみて鉱業の占める比率は大きくはない。1980年代まで工業部門で重要なのは食品(魚類缶詰、肉の保存加工、酪農品、製粉)および飲料工業(ワイン、ビール)、繊維工業、靴製造などであった。賃金水準が低いとはいえ、国際競争力はあまり強くない。部品調達に難があることや政治情勢の不安などで海外からの投資は控えられてきたが、1980年代中ごろから外国資本の進出が漸増し、自動車組立てや電子工業の集積が進んだ。2002年の数値でみると、ポルトガルへの直接投資総額18億7800万ユーロのうち、15億7220万ユーロ(約84%)がEU(ヨーロッパ連合)内の国々からのもの。ついでブラジル、アメリカの順となっている。ただし毎年その数値は大きく変動している。
[田辺 裕・柴田匡平]
輸出入
輸入総額450億3300万ドル、輸出313億1400万ドル(2003)で、恒常的貿易赤字傾向が続いている。主要貿易相手国はスペイン、ドイツ、フランスらEU諸国。輸出産品は衣類、織物および繊維製品、電気機械製品、自動車および自動車部品、コルク・コルク製品、食料、ワインなど。原油、工業製品、穀類、魚貝類を輸入している。外資系企業が輸出に果たす役割が増大しつつある。
[田辺 裕・柴田匡平]
金融・財政
1974年以降国際収支がとみに悪化し、海外移民の本国送金、観光収入、IMFなどの公的融資、通貨切下げなどによって対処してきた。インフレーション抑制のため、緊縮財政が1983年以降強力に推進され、1985年ごろからようやく鎮静した。1986年のEC加盟後、外資が流入したため1990年には資本流入がやや制限された。大部分の金融機関はクーデター後国有化されたが、民間銀行の設立が1984年に許可され、1998年現在81行の民間銀行が設立されている。
[田辺 裕・柴田匡平]
交通・通信
道路総延長7万2600キロメートル(2002)、鉄道総延長3579キロメートル(1999)。自動車の普及状態や、マス・メディア(ラジオ、テレビ、新聞など)の普及は他の西ヨーロッパ諸国に比較すると低い。長い歴史をもつ海運は110万トン(2002)を保有し、主要港湾はリスボン、レイションイストルー、セトゥーバルなど。航空運輸はTAP(タップ)ポルトガル航空が担い、本土とアゾレス、マデイラおよび海外を結んでいる。
[田辺 裕・柴田匡平]
開発と保全
産業基盤整備が急務だが、近年までの政治・経済の混乱のため国土開発は停頓(ていとん)した。河川開発はドーロ川やテージョ川など北部で進められてきたが、1980年代に入ってアレンテージョ地方など南部における発電・灌漑(かんがい)用多目的ダム開発の計画が進められた。国際河川が多いこと、EUからの農業開発資金援助など資金調達面の海外依存など、ポルトガルの国土開発は対外関係と密接に結ばれている。
[田辺 裕・柴田匡平]
社会・文化
住民
ヨーロッパ西端に位置し、アフリカ大陸とも近いポルトガルは、古来さまざまな民族の侵入を被った。フェニキア人、ギリシア人、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、西ゴート人、ユダヤ人、ムーア人などが到来したが、それらは混合され、今日のポルトガルはヨーロッパでももっとも均質な民族国家の一つとなっている。人種的には地中海系で中背、茶色の瞳(ひとみ)で黒みがかった髪や栗(くり)色の髪が多いが、北部ではときたま青い瞳、金髪(ゲルマン人、西ゴート人の血統)がみられる。
言語は、公用語、通用語ともにポルトガル語。ロマンス語系で、ローマ支配期に起源を有する。1931年にブラジルと正字協定を結び、大西洋を挟んでことばの混乱の少ない言語となっている。
宗教は、ローマ・カトリック信者97%、プロテスタント1%であって、人種と同様にきわめて均質な宗教構成である。一般に信仰心が厚く、宗教祭日も多い。
[田辺 裕・柴田匡平]
国民生活
人口は2001年1035万6117人、増加率は1981~1991年で年率0.7%、1996~2000年で0.2%、2000~2006年で0.6%。リスボンおよびポルトに人口が集中し、東部国境沿いの山岳地帯、とくにアレンテージョ地方は人口が少ない。1人当り国内総生産(2万0990ドル、2007)は西ヨーロッパでもっとも低い部類に属し、海外への移民が続いている。1973年には合法・非合法あわせて13万人が流出したが、その後は年2万人台に減少した。流出先はフランスをはじめとする西ヨーロッパ諸国であったが、近年北アメリカへの移民の割合が増大してきた。海外移民は総数500万人に上るとみられる。
義務教育は小学校6年と中学校3年である。その後は高等学校が3年、大学が3年課程である。大学は1290年創立のコインブラ大学をはじめ、14校ある。
ポルトガルの医師は約3万1758人で、人口316人当り1人である(1999)。これはオランダやフランス、イギリスなどに比して遜色(そんしょく)ない数字ではあるが、病床数でみると(238人当り1床)西ヨーロッパの最低水準になる。ただし社会保険制度は広く普及しており、1979年以後は医療無料化を目ざし始めた。公営と民間病院のほか、貧困者のための慈善病院も活動している。
[田辺 裕・柴田匡平]
文化
ポルトガル文化の淵源(えんげん)は先史時代にさかのぼるが、ローマやイスラムの痕跡(こんせき)を残しつつ独自の文化を形成し始めたのは中世以降である。壮麗なゴシック様式が導入されたのち、15~16世紀にかけて装飾的なマヌエラン様式が開花した。海外進出と相まって、バロック様式も独自の発達をみせている。よくも悪くも伝統的な文化の国であって、宗教色の強いことが特徴である。
敬虔(けいけん)なカトリック信者が多く、気質は隣国スペインと比べ穏やかといわれる。概して保守的だが、他面伝統的な海外志向をもち、移住した親族との紐帯(ちゅうたい)も強い。華麗な装飾性と宗教的雰囲気を好み、追憶と叙情、詠嘆に共感する。海の幸を嗜好(しこう)し、タラ料理は有名。飲料は赤ワインとビール。
ゴシックからバロックにかけての歴史的建造物(聖堂、宮殿)が数多くみられ、観光が重要な外貨獲得手段であることも手伝って保存に力が入れられている。博物館や図書館はリスボンに多く、国立美術館、国立馬車博物館(古代の車両収集ではヨーロッパ随一)、現代美術博物館などがある。歴史を誇るコインブラ大学図書館は貴重な史料を多く収蔵している。
[田辺 裕・柴田匡平]
芸術
ポルトガル文学は16世紀に開花し、ルイス・デ・カモンイスをはじめとする多くの詩人、劇作家や史家を生んだ。ポルトガル語の微妙な母音変化はとくに詩の発達を促した。超自然的な題材よりも運命の流転や歴史的な素材が興味の中心で、劇作も盛んであった。20世紀に至り社会派的な小説が登場する一方、コスモポリタニズムも標榜(ひょうぼう)された。主要劇団は15を数え、地方都市にも浸透している。バレエ団は4、オーケストラは6に上る。民間俗謡ファドはアマリア・ロドリゲスの名とともに日本でも知る人が多い。
[田辺 裕・柴田匡平]
言論・出版
1974年のクーデター後、新聞の検閲制度が撤廃され、新憲法下で言論の自由が保障された。ただし民間の大資本が国有化されたことにより国営となった新聞もある。地方紙が主体で、1999年現在の主要日刊紙は35に上るが、発行部数はいずれも10万に満たない。ラジオには国営とともに民間局もあるが、テレビ放送は国営(RTP、2チャンネル)と民営(2チャンネルで、うち1局は宗教テレビ)がある。
[田辺 裕・柴田匡平]
日本との関係
歴史的関係
ポルトガルの海外雄飛を謳歌(おうか)した叙事詩『ウス・ルジーアダス』(1572)のなかで国民詩人ルイス・デ・カモンイスは日本について「良質の銀を産し神の掟(おきて)で光をえる」と歌っている。ポルトガル人が種子島(たねがしま)に漂着し、鉄砲を伝えた1543年(天文12)から6年後フランシスコ・ザビエルが鹿児島でキリスト教の布教を始め、これ以後イエズス会(ルターの新教に対抗しイグナティウス・デ・ロヨラとザビエルなどが結成)の多くの宣教師が来日したが、ルイス・フロイス(1563来日)は1569年(永禄12)織田信長から改めて布教を許可された。九州の大名大村純忠(おおむらすみただ)、大友宗麟(おおともそうりん)、有馬晴信(ありまはるのぶ)はポルトガル商人との貿易を求めて布教を許可し、ポルトガル船は1550年(天文19)以降、平戸、府内(大分)、横瀬浦、福田などに入港し、中国産生糸と日本の銀を主品目とする中継貿易を行った。大村純忠は、ポルトガル船のパイロットが良港であることを発見した長崎を1570年(元亀1)開港し、1580年(天正8)イエズス会に寄進したので長崎は教会領となった。豊臣秀吉(とよとみひでよし)は神道(しんとう)と仏教の国日本の法に違反するとして1587年キリスト教禁令を出し、翌1588年年長崎を直轄領としたが、貿易は奨励した。徳川家康も貿易振興政策をとり、1600年(慶長5)豊後(ぶんご)に漂着したオランダ船リーフデ号の航海長イギリス人ウィリアム・アダムズを、日本・ポルトガル貿易の仲介者であったジョアン・ロドリゲス神父にかえて貿易顧問にした。このころフランシスコ会、ドミニコ会などの宣教師も渡来して布教し、信徒は全国に広がったが、オランダとイギリスがポルトガル、スペインの布教は日本侵略の手段であると中傷し、国内でも仏教徒、儒者、神官などのキリスト教排斥の声が高まった。家康はキリスト教は封建社会の確立を妨げると考え、1612年から禁教令を出し、宣教師の追放と信者の改宗などを命じた。これからのちポルトガル・スペイン(1580~1640年スペイン王がポルトガル王を兼任)との貿易関係もしだいに悪化した。伊達政宗(だてまさむね)は1613年スペイン国王とローマ法王に、ノビスパニア(メキシコ)との貿易と宣教師派遣を求めて支倉常長(はせくらつねなが)を派遣(1620年帰国)しているが、一方で徳川秀忠(とくがわひでただ)は1616年(元和2)貿易を平戸、長崎に制限した。家光(いえみつ)は1634年(寛永11)スペイン人の来航と貿易を禁じ、ポルトガル人を長崎の出島に移し、島原の乱ののち1639年ポルトガル船の来航を禁止した。長崎開港後70年目、種子島漂着後97年目で全面的な鎖国が成立した。
しかし、ポルトガル人が日本に残した文化と科学の遺産は多方面にわたっている。
(1)戦術、築城 信長が鉄砲を有効に利用し長篠(ながしの)の戦いで武田勢を破り、戦術の変化をもたらしたが、城郭建築はポルトガル人から学んだ築城術と伝統的建築様式の融合の結果であった。
(2)都市計画、建設 ポルトガル人は長崎の町を建設し、そのころの下水溝がいまも残っている。
(3)航海術、天文学、造船術 ポルトガル船の船長から航海術を学んだ池田好運(いけだこううん)は『元和(げんな)航海書』(1618)を著した。日本副布教長ペドロ・ゴメスPedro Gomez(1535―1600)は日本で最初の西洋天文学の書物を書いている(1594出版)。日本に地球球形説を紹介した向井元升(むかいげんしょう)の『乾坤弁説(けんこんべんせつ)』(1650)は副管区長クリストバン・フェレイラ(棄教後、沢野忠庵(さわのちゅうあん))が翻訳したポルトガル天文書の翻案である。
(4)医学 ルイス・デ・アルメイダは府内(大分)に病院を建て外科手術を行った。沢野忠庵は『南蛮外科秘伝書』を著し、ポルトガル外科を学んだ山本玄仙(やまもとげんせん)は外科医学書『万外集要(まんげしゅうよう)』(1619)を書き、またフランシスコ会宣教師はハンセン病者の病院を建てた。
(5)工芸品、楽器、衣料、飲食物、生活用品、喫煙等 南蛮デザインの漆器、うんすんかるた、時計、眼鏡(めがね)、オルガン、クラブサン、チャルメラ、襦袢(じゅばん)、ビロード、羅紗(らしゃ)、メリヤス、合羽(かっぱ)、マント、毛織物、ボタン、ぶどう酒、コーヒー、パン、カステラ、てんぷら、ボーロ、バッテラ(鮨(すし)。bateiraはボートのこと、形が似ている)、ザボン、マーマレード、サラダ、コップ、カンテラ、シャボン、トタン、ブランコ、たばこ等々。
(6)印刷術 天正(てんしょう)少年使節(1582~1590年、大村、大友、有馬氏がローマ法王とスペイン・ポルトガル王に派遣。天正遣欧使節ともいう)が西洋印刷機を持ち帰り、「キリシタン版」教義書と、文学書(『伊曽保(いそほ)物語』『平家物語』など)、文法書、辞書を印刷した。
(7)音楽、絵画 セミナリオ(神学校)で器楽・絵画・彫刻、教会で声楽を教え、少年使節はポルトガルのエボラの大聖堂でオルガンを弾き、秀吉の前で洋楽を演奏した。宗教画の影響で50双以上の南蛮屏風(びょうぶ)が描かれた。
(8)語学 ジョアン・ロドリゲスが著述・編纂(へんさん)した『日本大文典』と『日葡(にっぽ)辞書』(1603~1604年長崎で出版。収載語数約3万)は、西欧語で書かれた最初の日本語の文法とことばを解説した辞書である。日本語になったポルトガル語は約250と思われる。
(9)歴史、哲学、倫理 ルイス・フロイスの膨大な『日本史』は西欧語最初最大の日本歴史で、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は卓越した日本の風俗社会の研究でもある。キリスト教哲学、倫理は一夫一婦制を教えた。現代では、ベンセスラウ・デ・モラエスが日本への深い理解に基づいて書いた作品がポルトガルでも有名である。
[安部眞穏]
現代における関係
第二次世界大戦中ポルトガルは中立を守り、日本との国交を維持していたが、日本の敗戦後、外交関係は断絶した。1953年(昭和28)に国交は回復したものの、両国関係は比較的疎遠であった。しかしポルトガル革命後の1977年には、アメリカの要請に基づき日本が西欧諸国とともにIMFの斡旋(あっせん)による国際収支援助に協力、これがIMFの援助と相まって各国市中銀行の個別的長期融資の呼び水となり、ポルトガルの経済再建に寄与した。1984年には両国外交史上初めて現職首相(マリオ・ソアレス)の訪日が実現した。1998年5月には天皇・皇后、2004年5月には皇太子がポルトガルを訪問している。アゾレス諸島200海里海域における日本マグロ漁船の操業を可能にした漁業協定も1978年に締結された。文化交流の面では、モラエスと日本女性との恋愛をテーマとした新田次郎の『孤愁(サウダーデ)』(1980)、日本・ポルトガル合作映画『恋の浮島』(1982)などが特筆される。16~17世紀におけるポルトガルの西欧文明と科学技術の導入が今日の日本の経済とハイテクノロジー発展の淵源(えんげん)となったことを顧れば、日本がポルトガルへの認識を新たにして経済援助と文化交流を促進することは、歴史的にもきわめて意義深いことといえるであろう。
[安部眞穏]
『斉藤孝編『世界現代史23 スペイン・ポルトガル現代史』(1979・山川出版社)』▽『在スペイン・在ポルトガル日本国大使館編『スペイン・ポルトガル共和国』(1984・日本国際問題研究所)』▽『マヌエラ・アルヴァレス、ジョゼ・アルヴァレス著、金七紀男・岡村多希子・大野隆男訳『ポルトガル日本交流史』(1992・彩流社)』▽『野々山真輝帆著『リスボンの春――ポルトガル現代史』(1992・朝日選書)』▽『高野悦子・伊藤玄二郎編、高原至写真『図説 ポルトガル』(1993・河出書房新社)』▽『安部真穏著『波乱万丈のポルトガル史』(1994・泰流社)』▽『田辺裕監修『世界の地理10 イベリア』(1997・朝倉書店)』▽『市之瀬敦著『ポルトガルの世界――海洋帝国の夢のゆくえ』(2000・社会評論社)』▽『立石博高編『新版 世界各国史16 スペイン・ポルトガル史』(2000・山川出版社)』▽『池上岑夫・牛島信明・神吉敬三・金七紀男・小林一宏他監修『スペイン・ポルトガルを知る事典』新訂増補版(2001・平凡社)』▽『デビット・バーミンガム著、高田有現・西川あゆみ訳『ポルトガルの歴史』(2002・創土社)』▽『金七紀男著『ポルトガル史』増補版(2003・彩流社)』