日本歴史地名大系 「多久村」の解説 多久村たくむら 島根県:平田市多久村[現在地名]平田市多久町多久谷(たくだに)村の東にあり、島根半島脊梁部の山地から、南の平地へ延びる東西七町五四間・南北一里六町余ほどの村。東は園(その)村。南部を平田町から園村南部布崎(ぬのざき)へ通ずる平田船(ひらたふな)川(船川)が流れ、川沿いには灘(なだ)ノ町家といわれる小さな町場が成立していた。この町場を通って杵築道(幅二間)が東西に通じ、同道から分れて北方の小伊津(こいづ)浦に通ずる雲見(くもみ)峠越の道も通っていた。農業を主業としたが、薪の余分を売り、また明治六年(一八七三)頃には油木実(主として油桐)の売上げが年間三六〇貫文ぐらいにのぼっていた(同年「地理取調書」県立図書館蔵)。多久谷村とともに中世多久郷の遺称地で、近世には楯縫(たてぬい)郡に属した。慶安三年(一六五〇)の多久村検地帳では田方二四町八反余・分米三三一石余、畑方三町七反余・分米二二石余、屋敷数一九。元禄十年出雲国郷帳によると高四三六石余、寛文四年(一六六四)には本田高四二九石余・新田高一石余。「雲陽大数録」では高三八〇石。 多久村たくむら 福岡県:前原市多久村[現在地名]前原市多久・美咲(みさき)が丘(おか)二―三丁目・南風台(みなかぜだい)五―六丁目・同八丁目篠原(しのわら)村の南西に位置し、北は志摩(しま)郡荻浦(おぎのうら)村・大浦(おおうら)村。村域の大部分は多久川左岸にある。「和名抄」所載の怡土(いと)郡託杜(たこそ)郷の遺称地とする説がある(続風土記)。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日の大内政弘下文(「正任記」同月一八日条)に「多久村」とみえ、愛洲七郎の所領であった当村一五町などが末永(すえなが)一五町などの代りとして高祖(たかす)城の烏田通忠に与えられている。元亀三年(一五七二)一月二七日、同城城主原田了栄・同親種と大友宗麟方の臼杵鎮との間で池田(いけだ)河原での合戦があり、戦死した行弘刑部丞への恩賞として子息直次に多久村二町五反などが与えられた(同年二月二八日「多久村坪付」行弘文書/大日本史料一〇―八など)。 多久村たくむら 熊本県:鹿本郡鹿北町多久村[現在地名]鹿北町多久南西に西(にし)岳(六四八・三メートル)がそびえ、北部を岩野(いわの)川が西流する。東は茂田井(もたい)村、北は椎持(しいもち)村、西は四町(しちよう)村と接する。天正検地を写したと思われる慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、田四六町九反七畝余・畠二八町一反四畝余・屋敷四三筆五町五反一畝余、分米七九四石六斗余。同二年の荒新開請合帳には田五町五反四畝余・畠四七町七反二畝余、分米一三六石四斗余、家数三五とあり、下ケ名市井木の向・神後・天神の元などで畠を中心とする新開が行われた。近世は山鹿(やまが)郡中村手永に属した。宝暦二年(一七五二)の中村手永御蔵納手鑑によると椎持村・星原(ほしわら)村などが枝村であった。「国誌」には「本多久村竹尾村荒平村金原村田中村カイセ村原村等ノ小村アリ」と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by