日本歴史地名大系 「鹿本郡」の解説 鹿本郡かもとぐん 面積:二七七・一二平方キロ鹿北(かほく)町・菊鹿(きくか)町・鹿本(かもと)町・鹿央(かおう)町・植木(うえき)町県の北部に位置し、郡域は南北に長く、北部は姫御前(ひめごぜん)岳(五九五・八メートル)・星原(ほしわら)山(七九三・四メートル)・国見(くにみ)山(一〇一八・一メートル)・三国(みくに)山(九九三・八メートル)・八方(やほう)ヶ岳(一〇五一・八メートル)などの筑肥山地の峰々がそびえ、南部の鹿本町・鹿央町・植木町は平坦地となり菊池平野を形成する。郡の中央を菊池川が西流し、南流する内田(うちだ)川・木野(きの)川・岩野(いわの)川や北流する千田(ちだ)川・岩原(いわばる)川・合志(こうし)川などを合流する。北は福岡県、北東は大分県、東は菊池市と菊池郡七城(しちじよう)町・泗水(しすい)町・西合志(にしごうし)町、南は飽託(ほうたく)郡北部(ほくぶ)町・河内(かわち)町、西は玉名(たまな)郡三加和(みかわ)町・菊水(きくすい)町・玉東(ぎよくとう)町と昭和二九年(一九五四)当郡から分離した山鹿(やまが)市と接する。植木町の南部を鹿児島本線が通り、九州自動車道が植木町東南部から鹿央町南西部を通り菊水町に抜ける。また国道二〇八号が植木町を、同三二五号が鹿本町を横断し、同三号が植木町・鹿央町の東部を縦断し、鹿北町の南西部を通る。「三代実録」貞観元年(八五九)五月四日条にみえる山本(やまもと)郡と、「筑後国風土記」逸文や平城宮出土木簡などにみえる山鹿郡が、明治二九年(一八九六)合併し、両郡の一字ずつをとって鹿本郡となる。山鹿郡には同三年に編入した玉名郡の旧中富手永の各村が含まれていた。〔原始・古代〕先土器時代の遺物は鹿北町柿原(かきばる)遺跡からサヌカイト製の尖頭器が、菊鹿町宮野(みやの)からサヌカイト製のナイフ形石器、植木町田中原(たなかばる)遺跡から黒曜石製の石槍・細石器が出土している。縄文早・後・晩期および古墳期の複合遺跡である鹿本町成竹(なるたけ)遺跡や縄文早・後期、弥生中期の複合遺跡の鹿央町向原(むかえばる)遺跡、植木町久保(くぼ)・松葉(まつば)・オスギの各遺跡などからは押型文・撚糸文土器が出土する。成竹遺跡からは土器の把手と推定される蛇頭が出土。植木町には縄文後期から弥生後期の複合遺跡の河原立(こうらだち)遺跡がある。鹿本町津袋大塚(つぶくろおおつか)遺跡からは縄文中・後期の土器片が、植木町山(やま)ノ上(うえ)遺跡・亀西(かめにし)遺跡からは土偶が出土している。弥生前期の遺跡には、中期までの複合遺跡の鹿本町庄(しよう)遺跡や、一〇〇基以上の甕棺が出土した鹿本町御宇田(みうた)から山鹿市境にかけての中尾下原(なかおしもばる)や植木町白石(しらいし)・塔(とう)ノ本(もと)などの遺跡があり、これらは台地上にある。中期の広鋒銅鉾が鹿本町御宇田・庄から一本ずつ、銅戈一本が中尾下原遺跡から出土している。後期には鹿本町西久保(にしくぼ)遺跡から袋状口縁壺・無頸壺・脚台付甕などが、植木町轟(とどろき)遺跡から中細型銅鉾四本が出土している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by