日本歴史地名大系 「多仁庄」の解説
多仁庄
たにのしよう
古代の多仁郷を荘域としたと思われる京都
地名は康保三年(九六六)五月三日清胤王書状(九条家本「延喜式」裏文書)に「多仁村」とみえるのが早い。平安時代末期のものと推定される成勝寺年中相折帳(書陵部所蔵祈雨法御書裏文書)に、年中行事の費用である「常灯料油」を負担する荘園として「多邇御庄」とみえる。保延五年(一一三九)成勝寺の創建と同時に寄進されたものかと思われる。領家はのちに「多仁庄者、中納言実綱卿相伝之地也」(建治二年六月二八日「官宣旨」平岡定海氏所蔵文書)といわれることから、治承四年(一一八〇)没した権中納言藤原実綱家であったことがわかるだけで前後は不明。
荘内はいくつかの地域ごとに分掌されていたらしい。地頭設置をめぐっての源頼朝書状(尊経閣所蔵文書)に、
とあり、荘内は「田布施方」をはじめ諸郷がそれぞれの領家の下にあったらしいが、荘全体の領家との関係は不明。成勝寺の衰退もあってか荘全体の動向も不明で、荘内の「田布施村」「田布施領」「田布施庄」「田布施方」とよばれる地域(現田布施町大字上田布施・大字下田布施付近)の動向を通じてうかがえるにすぎない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報