年中行事(読み)ねんちゅうぎょうじ

精選版 日本国語大辞典 「年中行事」の意味・読み・例文・類語

ねんちゅう‐ぎょうじ ‥ギャウジ【年中行事】

〘名〙 (「ねんぢゅうぎょうじ」とも) 一年のうちで、一定の時期に慣例として行なわれる公事。もと、宮中で行なわれるものをいったが、後には民間の行事・祭礼にもいうようになった。
※北山抄(1012‐21頃)六「公式令、不御画日可等事而年中行事云、詔書勅書並用画日、覆奏之文、画可云々」
※太平記(14C後)二四「その年中行事(ギャウジ)と申は、まづ正月には平旦に天地四方拝、屠蘇白散、群臣の朝賀、小朝拝云々」

ねんじゅう‐ぎょうじ ネンヂュウギャウジ【年中行事】

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デジタル大辞泉 「年中行事」の意味・読み・例文・類語

ねんちゅう‐ぎょうじ〔‐ギヤウジ〕【年中行事】

一定の時期に毎年慣例として行われる儀式や催し物。初め宮中の公事くじについていったが、のち民間の行事や祭礼にもいうようになった。ねんじゅうぎょうじ。

ねんじゅう‐ぎょうじ〔ネンヂユウギヤウジ〕【年中行事】

ねんちゅうぎょうじ(年中行事)

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改訂新版 世界大百科事典 「年中行事」の意味・わかりやすい解説

年中行事 (ねんちゅうぎょうじ)

1年を周期に反復する行事の体系。地球の公転による自然の推移と,それに準拠する暦法()の暦日に規定されている。

年中行事は村や家など,集団での生活の流れに,1年単位のリズムを刻む役割を果たしている。朝廷や社寺のような特殊な階層にも,独自の年中行事がある。元来,宗教的・儀礼的性格が強く,日常的な経済活動のなかに,非日常的な精神的部分が加わるところに特色がある。日本の年中行事の基盤は,稲作儀礼を中心にした生活暦による行事と,中国の暦法にともなう行事との習合で形成されている。漁労儀礼もあるが,年中行事の体系全体を動かす力にはなっていない。年中行事が,稲作社会を背景に成立しているからであろう。

 北半球の温帯域では,だいたい冬至を新年の基準にしている。おもな作物の収穫後に新年を置く暦法で,日本古来の新年も,大嘗祭(だいじようさい)の日であったらしい。大嘗祭が天皇の即位儀礼の日でもあったのは,アジアの古代国家で新年に帝王の即位儀礼を行ったのに合う。日本語の〈トシ〉も,中国語の〈年〉も,本来は穀物の実りを意味した。穀物が2月から5月に熟す琉球諸島では,もともと生産暦に即して,5月から8月にかけて収穫儀礼や新年儀礼があった。年中行事には,1年を二分する観念もある。朝廷の祓の行事が6月と12月にあるのもその一例で,1年の前半と後半で行事が反復する。現代では正月と盆(盂蘭盆会)との対応に顕著に現れている。

 《養老令》には朝廷の年中行事がみえている。〈神祇令〉の祭には,日本的な,稲作儀礼に立脚する行事と災害を除く祓の行事がある。播種儀礼の2月の祈年祭(きねんさい),収穫儀礼の9月の神嘗祭(かんなめさい),11月の相嘗祭(あいなめのまつり)と鎮魂祭(ちんこんさい),風水害よけの4月と7月の大忌祭(おおいみのまつり)と風神祭,祓の6月と12月の月次祭(つきなみのまつり)と鎮火祭および道饗祭(みちあえのまつり)である。〈雑令〉には〈節日〉として中国的な節供がある。これは朝廷で節会(せちえ)がある日で,1月1日の元日節会,7日の白馬(あおうま)節会,16日の踏歌(とうか)の節会,3月3日の上巳(じようし)節会(曲水の宴),5月5日の端午(たんご)節会,7月7日の相撲節会,11月〈大嘗(おおむべ)〉の日の新嘗会(新嘗祭(にいなめさい))である。これらは,後世の一般の年中行事のなかでも,重要な要素になっている。

 日本の年中行事は,律令成立前後に成熟期を迎えたようであるが,その後も時代により地域により変遷を重ねてきた。上流階級の行事と一般の行事との交流は,きわめて複雑である。行政的な行事が,一般に浸透した部分も少なくない。琉球の首里王府のように,行事の日取りをその年の実情に合わせて定めたり,収穫儀礼に徴税担当官が関与するなど,行政機関が一般の行事にかかわっていた例もある。ことに暦法や行事の儀礼に通じた宗教家が,各階層の行事の変化交流におよぼした影響は大きい。年中行事の地域的変化は,それぞれの土地の生活文化の差ばかりではなく,こうした外部からの知識の波及の度合の違いが大きな原因になっていることが多い。
執筆者:

中国の年中行事は,漢民族中心の農耕社会のもとで発生し,一般に全国的規模をもち,歳事,歳時,月令などと呼ばれた。先秦時代,すでに正月を祝うほか,土地神を祭る社祭,上巳節,百神を祭る蜡祭(ささい)(臘祭(ろうさい))などがあり,自然の運行に即した生活のリズムが形成され,豊作祈願や歓楽・慰労の機会を提供した。具体的な年中行事は,時代を追って興廃し,一般に複雑・多様化したが,解放後,その大部分は迷信的なものとして排除され,廃止されたものが多い。一方,国慶節,国際労働節(メーデー)など新しい祝日が生じ,年中行事化された。歴代の年中行事はおもに(1)家族生活,(2)農耕生活,(3)祖先祭祀,(4)宗教(道教,仏教)生活に関連するが,最近では,(5)政治意識(社会主義国家としてのそれ)に基づく要素が強い。

 唐・宋時代を中心にしつつ,おもな年中行事に触れたい。まず年初の正月は,後述する冬至とともに最大の祝日であり,爆竹を鳴らし,屠蘇酒(とそしゆ)を飲み,桃符を飾った。桃符は後に春聯(しゆんれん),門神(もんしん)などになる。これらはいずれも災いをはらい福を祈る行事である。今日の中国でも,この旧暦の正月は春節と呼ばれ,新暦の正月よりも盛んに祝われる(新暦使用は,民国以後)。1月7日は〈人の日〉と名づけられた人日節であり,〈人勝〉を屛風などに貼り,その日の天候のよしあしによって1年の禍福を占った。1月15日は上元節で,その夜を元宵(げんしよう)と呼ぶ。この日を中心に前後3日間,もしくは5日間,華やかな灯籠祭がくり広げられ,一晩中,見物の人で雑踏する。7日,もしくは15日が用いられているのは,月の満ち欠けを基準とする旧暦の必然的な結果であり,満月・上弦・下弦がめやすとなる。2月には農作業の開始に先だって豊作を祈る春社があり,また2月末から3月初めにかけて寒食・清明節がある。寒食節には2,3日,火の使用が禁じられ,紙銭を焼いて先祖の墓参りをした。後には,柳の枝を門や頭に挿すことも多い。春社や寒食・清明節は,ともに神や祖先の御加護を求める農耕・祖先祭祀的行事であろう。3月3日の上巳節は身の汚れを水で洗い落とす行事であり(曲水の宴),この前後,踏青といって郊外への散歩も行われる。

 夏になると,5月5日の端午節が最大の行事であり,とくに長江(揚子江)中下流域では盛んに競渡(ボート・レース)が行われた。これは粽(ちまき)を食べることとともに,詩人屈原との関連で説明されるが,実は雨乞いの農耕儀礼に基づくという。またこのころ,悪疫や病虫害がはびこるので,菖蒲(しようぶ)や(よもぎ)を門に挿したり,菖蒲酒を飲み,またひじに長命縷(ちようめいる)・続命縷をさげて災いを避けた。ちなみに,4月8日の釈迦生誕日は,あまり重要な行事ではなかった。秋はまず7月7日の七夕である。牽牛・織女の2星がこの夜出会うという伝説は六朝前半以来であり,やや遅れて女性が手芸の上達を祈る乞巧(きつこう)節へと変貌する。

 7月15日は道教・仏教共通の祭日であり,家では祖先を祭り,寺では迷える亡者を済度する盂蘭盆会としての性格が強い。8月15日は中(仲)秋節と呼ばれ,月見を楽しみ,後には月餅を食べ,〈月光馬児〉(月神の神像)などを飾った。1年の豊作を感謝する秋社も8月にあり,晩秋の9月9日は,高い所にのぼり,茱萸(しゆゆ)の枝を髪に挿し,菊酒を飲む重陽節である。ちなみに,おもな年中行事が1月1日のほかに,3月3日,5月5日,7月7日,9月9日など,陽数(奇数)を重ねた日であることは,陰陽説の強い影響があるとされ,同時に覚えやすさも関連するであろう。本来,上巳節,端午節は3日,5日に限定されてはいなかった。

 冬最大の行事は11月の冬至である。冬至は五穀の豊穣を約束する陽気の回復する日として,とくに農耕民族にとっては重要である。後世では,竈神を送る12月23日の行事も盛んであり,除夜になると,悪鬼や疫病をはらう大儺(だいだ)(追儺(ついな))を行った。これらの諸行事は,民間の暦書である通書のなかに,日常生活に関する吉凶禍福とともに記されていた。

 こうした年中行事は,地方志の風俗の条や類書の歳時部以外,古くは《呂氏春秋》十二紀,《淮南子(えなんじ)》時則訓,《礼記(らいき)》月令(がつりよう)篇などに記される。ただこれらの篇は,いずれも国家が独自の暦書を制定し,民衆に対して自然の運行に応じて行うべき命令を告げ知らせるという形をとり,いわゆる時令意識の所産であった。今日現存する最初の民衆生活を記した歳時記としては,梁の宗懍(そうりん)の《荆楚歳時記》があり,隋代には歳時記の集大成ともいうべき杜台卿の《玉燭宝典》が作られた。唐代以後,都市や地方の生活,あるいは養生延命を説いた多種の歳時記が出現したが,これらは近年,台湾の芸文印書館から刊行された《歳時習俗研究資料彙編》(24種,30冊)や守屋美都雄著《中国古歳時記の研究--資料復元を中心として--》(帝国書院刊)などを見るとよい。
執筆者:

朝鮮の年中行事はその基本的生産様式である農耕の各段階に応じた信仰儀礼を軸として,文化系統の異なった種々な行事が並存・結合・混交しながら年中行事という一つの周期的慣習を形成し,人々の生活に節目を与えアクセントをつけている。たとえば中国の歳時風俗そのままの形態の宮廷を中心とする上層階級のみの典礼,新羅・高麗の仏教盛時に盛行した仏教儀礼(燃灯会など)の残存,儒教に基づく祖先祭祀や道教的な諸行事,さらに固有の巫俗(ふぞく)的諸行事が雑然と並存・混交し,きわめて複雑な様相を呈しており,それは朝鮮文化の複雑な歴史と性格の一面を如実に表している。また朝鮮では相次ぐ戦乱による生活の不安定さと,李朝における極端な儒教偏重主義によって正常な民衆の娯楽機関の発達がみられなかった結果,民衆の娯楽は種々な年中行事や部落祭のおりの仮面劇などに求められてきた。したがって朝鮮の年中行事はその宗教的機能とともに,近代に至るまで民衆の娯楽という重要な機能を担ってきたのである。

 朝鮮の伝統的な年中行事(表2参照)のなかには,中国と同じ期日に行われる行事や,関帝,城隍神など中国と同名の神格に対する祭儀が存在している。中国から受容されたと考えられる行事の種類は,元旦,立春のような暦のうえの起点であるものや上巳,端午,七夕,重陽のような干支・陰陽思想によって定着した重日の行事など中国文化の宇宙論的体系とかかわりをもつ行事,および文廟釈奠(せきてん)のような儒教的行事,浴仏日(灌仏会),中元のような仏教思想に基づいたものがその大部分を占めている。他方,中国の民衆生活と最も密接な関係にある竈神・紫姑神・財神の祭りや道教的諸神誕生日といった行事はほとんど受容されていない。さらに中国の年中行事の受容形式と行事の担当集団との関係についてみると,中国の年中行事はまず公的レベルで受容され,それに対応する固有の習俗がなく他の文化要素との関連が稀薄な場合(立春節など)は,個人のレベルにまで受容されるが,固有のものが存在する場合は一般民衆はその固有の行事をもって代行し,中国文化は上層部においてのみ受容される結果,両者の並存が認められる(たとえば城隍神祭。〈ソナンダン〉の項目参照)。ところが共同体によって担われている収穫儀礼としての秋夕(〈中秋節〉の項目参照)の行事のような社会構造や文化の諸要素との関連の深いものは受容されにくくなり,たとえ期日や名称は中国的であっても内容は固有のままであるという傾向が認められる。このように年中行事に関しても上層・基層あるいは公的・私的な文化の二重構造という朝鮮文化の特徴が明確に表れているのである。この事実は,日本の年中行事のうち公家のものには外来要素が多く,武家のものには民間行事から入ったものが多いが,日本では階層の区分に恒久性が乏しいために絶えず上下の交流が行われ,年中行事の上昇や下降の様相がめまぐるしいのときわめて対照的な点である。なお,〈朝鮮〉の項目の[生活文化と社会]を参照されたい。
執筆者:

古代インドにおけるバラモン教の聖典ベーダの一部を構成する家庭祭式の書グリヒヤ・スートラ(前6~前3世紀ころ)には,家庭で行われていた一連の季節祭の儀軌がみられる。ベーダに伝えられる祭式の枠組みに従い,これらの祭りは複雑な手続による諸神格への火供(祭火に供物を投ずること)を中心に構成されるが,それに付け加えられたそれぞれの祭りに固有な儀礼からは,日常生活や生産活動に深くかかわる年中行事の要素をみることができる。

 この時代のインドの暦は1年を春(3月,4月),夏(5月,6月),雨季(7月,8月),秋(9月,10月),冬(11月,12月),寒季(1月,2月)の6季に分けるが,〈年中行事の暦〉は雨季の初めの祭りシュラバナーŚravaṇāを冒頭に置く例が多い(祭りは通常,その月の満月の日に行われる)。この祭りは雨季に活発になる蛇の害を避けるため,蛇を融和する炒麦粉のバリ(火供によらない供物)をささげ,さらにバリを供養する儀礼,また家のまわりに水を注いで輪を3回描き,それより内に蛇が入らないよう祈る儀礼などが行われる。蛇へのバリ供はその活動が沈静する冬の初めまで毎日続けられる。秋の初めにはアーシュバユジーĀśvayujīという祭りが行われる。この時季は牛の繁殖に適した期間とされ,また雨季に子牛を生んだ牝牛からは最も多くの乳が期待されるときでもあり,この祭りはとくに牝牛の息災を願って行われる。火供に用いたプリシャータカ(ヨーグルトに液状バターを散らしたもの)という特殊な供物の残りを牝牛に与え,家族で食したりする。またその夜は母牛と子牛を放し,自由に授乳させる。この時季にはまた種牛を新たに任命,聖別する儀礼なども行われる。

 冬の初めにはアーグラハーヤニーĀgrahāyaṇīという祭りが行われ生活様式の転換点となる。その夜,祭場にわら床を敷き聖別し,家族全員がそこに年齢順に並ぶ。彼らは腰をおろし,横たわり,右脇を下に回転し,再び立ち上がるという儀礼を3回繰り返す。この儀礼により春の初めから用いていた高床の寝台から,冬・寒季に用いる床面に直接敷いたわら床で寝る生活へと移行するのである。先述の蛇へのバリ供もこの祭りをもって終了する。冬・寒季にはまた3回のアシュタカーAṣṭakāが行われる。この祭りは下弦の半月の日に行われ,少なくとも1回は牛を犠牲にする大祭で,〈歳の妻〉を祭る新年祭の色彩が強い。この大祭の翌日には,聖草の座に祖霊たちへのピンダ(米飯のだんご)を供し,さらにピンダを供養する祖霊祭が行われる。春の初めには前述のわら床を高床の寝台にかえる儀礼が行われるが,春と夏には後世のホーリーのような大祭はみられない。春はむしろ雨季,秋と並び新穀祭(アーグラヤナĀgrayaṇa)の季節である。春には新麦の供物の火供が行われ,供物の残りを家族で食する。雨季には雑穀で,秋には米で同様に行われる。

 ヒンドゥー教の年中行事は時代,地域,宗派,階層により多種多様である。現代のそれに限っても家庭内で行われるもの,カースト単位で行われるもの,村落単位で行われるものから,北インド,南インド,またインド全体にほぼ共通して行われるもの,新しく国家で制定した祝祭日などと,さまざまのレベルでみていかねばならない。このうちのインド全体にほぼ共通して行われる大規模な祭りについては〈ヒンドゥー教〉の項目を参照されたい。また,イスラム,パールシージャイナ教,シク教などの人々もそれぞれ独自の伝承による祭りを行っている。
執筆者:

イスラム教徒は,神への信仰を日常の行動のなかで具体的に表現することが求められ,イスラムはその意味で生活規範であり,イスラム教徒の行事は深くこれと結びついている。なかでも信徒の義務として五柱に挙げられている礼拝,断食,巡礼は,最も重要な行事であり,これらの行事を通じてイスラム共同体(ウンマ)の存在が確認される。たとえば,礼拝は各自1日5回これを行うことが定められているほか,毎週金曜日の正午には,町や村の中心となるモスク(ジャーミー)に集まり,イマームの指導のもとに集団礼拝を行う(この日はイスラム教徒の休日にあたる)。礼拝に先だってフトバ(説教)が述べられ,このなかに時の支配者の名をよみこむことによってそれぞれの地域共同体がその支配を承認していることが示されるのである。

 断食と巡礼(ハッジュ)は,イスラム教徒全体で一斉に行われる集団的行事で,これを通じて信徒としての連帯が確認・高揚される。断食はヒジュラ暦9月(ラマダーン月)に行われ,この1ヵ月間日中の飲食を断つ。日中は水一滴も飲めない苦しみに耐える反面,日没後の飲食は禁じられていないため夜間に飽食する形となり,ラマダーン月の日常生活はふだんと大きく違ったものになる。巡礼はヒジュラ暦12月(ズー・アルヒッジャ月)に行われ,この月の8日から10日の間に,メッカに参集し定められた順序と方法で集団的に行われる。メッカ巡礼は信徒にとって一生の悲願であると同時に,為政者にとっては各地から集まる巡礼団の道中の安全を保障することが,〈信徒の長〉としての重要な任務であった。マムルーク朝やオスマン帝国の時代には,毎年スルタンによって巡礼の指揮官(アミール・アルハッジュ)が任じられ,巡礼団の往復の道中のようすはただちにカイロ,イスタンブールをはじめ領域各都市に伝えられ,市民の関心の的となった。巡礼が無事に行われるかどうかは,信徒全体にかかわる問題だったのである。

 断食と巡礼の行事に合わせ,イスラムの二大祭であるイード・アルフィトル(断食明けの祭り)とイード・アルアドハー(犠牲祭)が催される(イード)。犠牲祭では,メッカ巡礼者が10日の日に動物犠牲をほふるのに呼応して,全イスラム世界で羊がほふられ,食卓にのせられる。貧しき者もこの日の羊を買うために生計をやりくりし,富者や為政者はこのような祭りに際し羊や菓子などの施しを行う。このほかイスラム教徒の祭りとしては,預言者,イマーム,聖者などの生誕祭(マウリド)や追悼祭(フサインの殉教をいたむアーシューラーはとくに名高い)が盛大に行われる。これらの日には,預言者や聖者の生涯が,物語師によってあるいは劇によって再現され,店は夜遅くまでにぎわい,町全体がお祭り気分につつまれる。

 これらの宗教的行事は,太陰暦であるヒジュラ暦に従って行われるのに対し,各地に固有な太陽暦に従って行われる季節や農事と結びついた祭りも多数みられる。たとえば,イランでは,春分がペルシア暦の新年(ノウルーズNourūz)にあたり,この前後に年末年始の行事が春の訪れを祝って行われる。エジプトでは,同様に〈春風をかぐ祭りShamm al-nasīm〉が行われるほか,秋のナイル川の増水を祝うワファー・アンニール(〈ナイルの洪水〉の意)が知られる。またマウリドも,農村では農繁期を避けて行われることが多く,下エジプトのタンターでは,アフマド・アルバダウィーのマウリドがエジプト古来の太陽暦(コプト暦)に従って行われ,この日はエジプト各地からさまざまな願いをもった参詣者が訪れて町はごったがえす。
執筆者:

ヨーロッパの年中行事には,クリスマス復活祭聖霊降臨祭のようなキリスト教会の年中行事と,民間信仰的年中行事との両者がある。後者は,異教時代の民衆の自然に対する畏怖と願望をこめた農耕および牧畜儀礼が変化したものであり,前者はキリスト教が異教と習合する過程で成立したものである。たとえば,クリスマス(12月25日),ヨハネ祭(6月24日)というキリスト教の祝日は,それぞれ異教時代の冬至,夏至の祭りに由来し,民間信仰的要素がたぶんに取り入れられている。

 異教時代の年中行事に共通してみられる最も重要な儀式は火祭の儀式である。教会は8世紀に,これを異教的であると決議し禁止したが,火祭の習慣は19世紀前半まで多くの地方で行われていた。それは1年のどの季節,どの地方で行われたにせよ,これを祝う形態,そこにこめられた願望には類似点が認められる。祭りの日,集落の全戸は燃料を持ち寄り,豊作豊穣を祈って戸外で公共の祝火をたき,人々はこれを囲んで踊り,その火を飛び越え,また家畜を追い立てて火の中をくぐらせた。燃えるたいまつを手にして,畑,放牧地,畜舎の周囲を行列してまわり,畑の畝を横切り,あるいは祝火の燃えさしや灰を畑や畜舎に埋めることなどはきわめて一般的に行われていた。クリスマスに家庭の暖炉で燃やすユール・ロッグ(クリスマスの薪)の習慣は家族中心に屋内でたかれるために,他の年中行事の火祭とは別もののようにみえるが,それはこの時季の悪天候によってたいせつな火が消されることを恐れたためで,その趣旨は他の火祭と同一である。人々は火祭の火と煙,燃えさしと灰とによって,凶作・疾病などの災厄をもたらす悪魔を追い払うことができると信じた。この信仰の由来を太陽の光と熱とにあやかるためと考える説もあるが,浄火によって,有害な魔力を焼きつくすためと考える祓除説が現在ではより有力である。

 火祭の最も重要な要素は,祝火用の薪やわらを集落の全戸が供出し,あるいは全戸の協力によって伐採し,戸外という共同の場で共同の火をたくという,集落の共同性にある。そこには身分の上下はなく,全員が平等の立場で祭りに参加した。しかし,キリスト教が民衆の間に封建的階層秩序を持ち込み,年中行事の祝祭を不平等の固定化に利用するようになると,ばか騒ぎ,ふざけが祭りの重要な要素となった。祭りは,民衆にとって,隷属を強制される厳しい日常からの解放の日,陽気な気晴しの日となり,荘厳ぶった聖職者,特権をふりまわす支配者,そして彼らと同じ人間である自分自身を茶化し,笑う日となった。このことは14世紀後半以降,顕著となるが,とくにカーニバルの騒ぎにその特徴がはっきりとみられる。その後,火祭の習慣はわずかずつ変形されながらも,科学的知識の普及が畑の畝や畜舎から悪魔をすっかり追放してしまう19世紀中ごろまで残存した。
休日 → →祝祭日 →農事暦 →祭り
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百科事典マイペディア 「年中行事」の意味・わかりやすい解説

年中行事【ねんちゅうぎょうじ】

毎年一定の時季に慣例として行われる儀礼。本来は神をまつるため労働をやめる日。語源は宮中で年々恒例の行事を忘れぬように示した表のこと。中国では歳時,月令という。宮中や公家,武家,民間の年中行事の別があり,いずれも日本固有の儀礼と大陸輸入の儀礼とが混交しているが,宮中の行事は比較的大陸の影響が強く,民間の行事は比較的固有の農耕儀礼に由来するものが多い。宮中では朔日(さくじつ)(ついたち)を元日とする大陸輸入の朔旦正月を公式とするのに対し,民間では満月を基準にする小正月を古式とした。そのほか年中行事の日は,月齢(十五夜,二十三夜など),重日(5月5日の端午,7月7日の七夕(たなばた)など奇数の重なる月日),十干十二支(初午,庚申講など),仏教やキリスト教など宗教の記念日,国家の記念日などがある。

年中行事【ねんじゅうぎょうじ】

年中(ねんちゅう)行事

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「年中行事」の意味・わかりやすい解説

年中行事
ねんじゅうぎょうじ

家庭や集団で年々繰返される周期的な行事。種類,内容は家,同族,村落,特殊集団,国家,民族など,支持する人の所属範囲によって異なる。年中行事のなかには,制度的なものが毎年同じ暦日に繰返されるために固定したものもあるが,神祭り的なものが固定した場合が多い。特に日本では,稲作を生業の基本としてきた年代が長いので,稲作儀礼を中心として,在来の原始信仰以来の行事と,外来の諸文化に基づくさまざまな行事とが,複雑にからまり合って成り立っている。また年中行事の基本は一種の神祭りであったから,神祭りと同様に,軽い物忌,重い物忌,神迎え,神饌,神態,神人共食,神送りなどの要素をそなえたものが多く,またそれらの要素のいくつかが脱落したり独立したりした形で,年間に散在しているものが多い (→節供 ) 。

年中行事
ねんちゅうぎょうじ

年中行事」のページをご覧ください。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「年中行事」の解説

年中行事
ねんじゅうぎょうじ

「ねんちゅうぎょうじ」とも。毎年一定の時期に,特定の集団によって定まった様式でくり返し行われる儀式・行事。家・集落・村・地方・社会・国・民族のそれぞれでしきたりとして共通に行われ,一種の拘束性をもつ。日常の生活を区切って特別なことを慣習的に行う日で,日常的なものを意味するケ(褻)に対して,ふだんと異なるものの意のハレ(晴れ)にあたる。ハレの日に節供・節日の文字をあてるのは暦法伝来以後の7~8世紀からで,五節供など「節」のつく公家社会の恒例行事の多くは中国伝来のものであった。節供にあたる在来の語はオリメ(折目)で,その日は月の満ち欠けによって選ばれ,農耕儀礼にもとづいた年中行事がとくに満月のモチ(望)の日に多く行われた。在来のものと外来のものとは習合・混淆しあって多様な年中行事が形成された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「年中行事」の解説

年中行事
ねんじゅうぎょうじ

毎年定まったときに決まった形で行われた行事
宮中や貴族の行事は平安中期に発達。賀茂祭・盂蘭盆 (うらぼん) ・節会など神事・仏事・政務に関するものがきわめて多かった。鎌倉に武家政権が誕生すると,評定始・犬追物 (いぬおうもの) など武家独自の行事もあらわれた。民間の行事は,門松・七夕など全国的なものもあるが,地方差により多様に行われている。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

日本文化いろは事典 「年中行事」の解説

年中行事

年中行事とは、1年の間に行われる儀式・行事の事です。もとは宮中で行われるものを言いましたが、後に民間の行事・祭事も年中行事と言うようになりました。私たちは普段、地球が太陽のまわりを1周する期間(365日)を1年と決めて作成される「太陽暦」を使用しており、様々な行事・祭事がその1年間に執り行われています。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「年中行事」の解説

年中行事
ねんちゅうぎょうじ

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
明治15.春(東京・市村座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の年中行事の言及

【年中行事】より

…地球の公転による自然の推移と,それに準拠する暦法()の暦日に規定されている。
[日本]
 年中行事は村や家など,集団での生活の流れに,1年単位のリズムを刻む役割を果たしている。朝廷や社寺のような特殊な階層にも,独自の年中行事がある。…

【農事暦】より

…1年を周期とする農業を営むために,四季それぞれの時期における農作業やそれにかかわる年中行事を,月日を追って系統的に定めた暦法または暦書。
【日本】

[古代・中世]
 古代・中世に,農事のための暦書が民間に存在した形跡は,今のところ見当たらないが,季節の移変りに従って,月日や干支や気候変動により,年中恒例の農村諸行事や,さまざまな農作業の種類と手順を定めた慣習的な暦法が各地域で行われていたことはたしかである。…

【日次紀事】より

…江戸前期の京都を中心とする朝野公私の年中行事解説書。黒川道祐編。…

※「年中行事」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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