熊毛郡(読み)くまげぐん

日本歴史地名大系 「熊毛郡」の解説

熊毛郡
くまげぐん

面積:二二二・八四平方キロ
上関かみのせき町・平生ひらお町・田布施たぶせ町・大和やまと町・熊毛くまげ

山口県東南部に位置して、西は下松くだまつ市・光市、北および東は玖珂くが郡・柳井市に接し、西から南にかけては周防灘である。郡内北部の熊毛町には、鍋鶴の渡来地として知られる八代やしろ盆地があり、烏帽子えぼし(六九六・六メートル)を主峰として南にかけては丘陵地である。その東南部に位置する大和町には県立自然公園石城いわき(三五〇・一メートル)があり、丘陵地が多い。平生町熊毛半島の西側を占め、周防灘沿いの平生開作とよばれる干拓地である。田布施町は田布施川下流と平生湾の沿岸を含み、上関町は熊毛半島先端部とそれに続くなが島・いわい島・島などの諸島を町域とする。このほか、光市の大部分と、柳井市の熊毛半島東側部分がかつては熊毛郡に含まれた地であった。

文献上にみえる熊毛郡は「続日本紀」養老五年(七二一)四月二〇日条に「分周防国熊毛郡、置玖珂郡」と、熊毛郡を分けて玖珂郡を設置した折のものが早いが、藤原宮出土木簡中に「熊毛評大贄伊委之煮」と読めるものがあり、これが周防国熊毛郡のことであるなら初見史料は藤原京のあった時代(六九四―七一〇)にさかのぼる。訓は「和名抄刊本に「久末計」とある。

〔原始〕

周防灘に面する海岸台地や、現光市域に属する島田しまた川流域には早くから人が居住したらしい。しかし先土器時代の遺跡の発見はまだなく、縄文時代の遺跡として発掘の行われたものに平生町の岩田いわた遺跡をはじめ尾国おくに浜崎はまさき、光市室積の伊保木むろづみのいよきなどの遺跡がある。いずれも縄文後期を中心として包含層が満潮時に海面下となる海底遺跡で、熊毛半島が徐々に陥没したことを示している。光市の室積湾海岸に御手洗みたらい横樋よこひ、熊毛町の島田川沿いに兼近かねちか広末ひろすえなど縄文後期の遺跡がある。

弥生遺跡として平生町の岩田遺跡吹越ふきこし遺跡、熊毛町の天王てんのう岡山おかのやま遺跡、光市の岡原おかばら遺跡などがある。弥生後半期には周防型土器とよべるものが、南部地域を中心にほぼ周防全域を覆うように分布し、北九州・長門圏と対立しているようにみえる。古墳時代は政治的・文化的にこの地が周防域の中心であったことを思わせる遺跡が多い。柳井市の茶臼山ちやうすやま古墳に始まり、平生町の県下最大の白鳥しらとり古墳・阿多田あただ古墳・神花山じんがやま古墳などに引き継がれる地方豪族の前方後円墳がそれである。


熊毛郡
くまげぐん

面積:七八九・〇七平方キロ
上屋久かみやく町・屋久やく町・南種子みなみたね町・中種子なかたね

大隅諸島の屋久島(口永良部島を含む)種子島二島のうち種子島北部を占める西之表にしのおもて市を除く地を郡域とする。両島は古くは多(国)に属していた。

〔古代・中世〕

天平五年(七三三)六月二日、「多島熊毛郡大領」の外従七位下安志託等一一人に多後国造の姓を賜っている(続日本紀)。天長元年(八二四)九月三日の太政官奏(類聚三代格)によると多国を廃し、同国四郡は「能満合於馭謨」「益救合於熊毛」として二郡とし、大隅国に編入されている。しかし当郡と能満のま郡は種子島に、益救やく郡と馭謨ごむ郡は屋久島にあった郡と考えられるので、前掲太政官奏の記載ではそれぞれ異なる島の一郡ずつを合せることとなって不自然であり、当郡と能満郡を合せて熊毛郡、馭謨郡と益救郡を合せて馭謨郡とし、ともに大隅国に編入されたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

防府市歴史用語集 「熊毛郡」の解説

熊毛郡

 上関町から光市にかけてを律令[りつりょう]時代には熊毛郡と呼んでいました。もともとは岩国市までの山口県東部が熊毛郡でしたが、721年に玖珂郡[くがぐん]として分かれました。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

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