大久保忠礼(読み)おおくぼ ただのり

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大久保忠礼」の解説

大久保忠礼 おおくぼ-ただのり

1842*-1897 幕末-明治時代の大名,華族
天保(てんぽう)12年12月2日生まれ。讃岐(さぬき)高松藩主松平頼恕(よりひろ)の子。徳川慶喜(よしのぶ)の従弟大久保忠愨(ただなお)の養子。安政6年相模(さがみ)(神奈川県)小田原藩主大久保家第2次9代。奏者番,甲府城代をつとめた。新政府軍の軍監ら十数名殺害の罪で永蟄居(えいちっきょ)となり,3万8000石減で養子忠良に家督をゆずった。赦免後,再相続して子爵。明治30年8月10日死去。57歳。名は「ただあや」ともよむ。

大久保忠礼 おおくぼ-ただあや

おおくぼ-ただのり

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の大久保忠礼の言及

【小田原藩】より

…相模国(神奈川県)足柄下郡小田原に藩庁を置いた譜代中藩。1590年(天正18)大久保忠世が小田原4万石を領したのに始まり,忠世,忠隣(ただちか)の2代に検地の実施,酒匂(さかわ)川大口堤の修築,酒匂堰の開削等に意を注いだが,1614年(慶長19)忠隣改易によって城は番城,領地は幕府代官が預かった。その後阿部正次が一時在城した後,32年(寛永9)老中稲葉正勝が下野国真岡より移封(8万5000石),その子正則が老中のかたわら藩領経営に全力をあげ,小田原藩政の基礎を築いた(10万3000石,後11万3000石)。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」