大伝法院跡(読み)だいでんぼういんあと

日本歴史地名大系 「大伝法院跡」の解説

大伝法院跡
だいでんぼういんあと

[現在地名]高野町高野山

金剛峯こんごうぶ寺敷地の東半分、青巌せいがん寺の地にあった。大治五年(一一三〇)覚鑁が平為里から紀伊国石手いわで荘の寄進を得て、一間四面の堂宇を建立し、伝法院と称したことに始まる。その後、鳥羽上皇の熱心な援助を得て改造した七間四面の堂が長承元年(一一三二)に落慶。これを大伝法院とよんだ。同三年大伝法院に座主職を置いたのをはじめ、覚鑁の威勢が盛大となるに及び、山内衆徒と相容れず、保延六年(一一四〇)両者は合戦を交え、金剛峯寺方は大伝法院方の僧坊八〇宇余を破却、覚鑁は自派の衆徒を率いて那賀なが弘田ひろた荘の豊福とよふく(現和歌山県岩出町)に移り、境内に堂宇を新築して鳥羽院の勅願所とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報