大住村
おおすみむら
[現在地名]田辺町大字大住・大住ヶ丘
西は虚空蔵谷川を隔てて松井村、南は薪村と接する。村内を奈良街道(歌姫越)が通り、これに沿って八小路・西村・東村・林・岡村・三野・関屋の七集落がある。木津川まで続く低平な水田地帯で、古来繰り返し大洪水に見舞われてきた。西南方の河内国境まで続く山中に岩田村・内里村(現八幡市)の飛地がある。
古代、大隅国から大隅直に率いられた隼人の一部が都に近いこの地に来住し当地を開発したと伝える。山背国隼人計帳(正倉院文書)のうちに「大住忌寸足人、年肆拾壱歳、正丁、天平六年七月死」「大住忌寸山守、年拾捌歳、少丁、天平七年六月死」とみえる。「続日本後紀」承和三年(八三六)六月一六日条には「山城国人右大衣阿多隼人逆足賜姓阿多忌寸」との記事がある。のち、当地には隼人司領大住庄が成立する。
大住村
おおずみむら
[現在地名]焼津市大住
小柳津村の南に位置し、黒石川の流域に立地する。南東は三右衛門新田、東は大住新田。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)に「大住」とみえ、駿府浅間社(静岡浅間神社)の六月二〇日の流鏑馬郷役一貫一〇〇文を課せられている。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳では高一九六石余。田中藩領で、同藩領のまま幕末に至る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報