日本大百科全書(ニッポニカ) 「田中藩」の意味・わかりやすい解説
田中藩
たなかはん
駿河(するが)国田中(静岡県藤枝(ふじえだ)市)に城地を置いた譜代(ふだい)藩。田中は東海道藤枝宿の南東にあり、田中城は「とくのいつしき(徳一色)城」(『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』)を武田の家臣馬場美濃守(みののかみ)が改修したものといわれ、縄張りの特質から亀甲(きっこう)城(本丸を中心に二の丸、三の丸を同心円状に配置)とよばれていた。1582年(天正10)徳川家康の支配から豊臣(とよとみ)系大名の中村一氏(かずうじ)に移り、さらに徳川氏譜代大名の城地となった。すなわち、酒井忠利(ただとし)1万石、松平(桜井)忠重(ただしげ)2万5000石、水野忠善(ただよし)4万5000石、松平(藤井)忠晴(ただはる)2万5000石、北条氏重(うじしげ)2万5000石、西尾忠昭(ただあきら)・忠成(ただなり)2万5000石、酒井忠能(ただよし)4万石、土屋政直(まさなお)4万5000石、太田資直(すけなお)・資晴(すけはる)5万石、内藤弌信(かずのぶ)5万石、土岐頼殷(ときよりたか)・頼稔(よりとし)3万5000石とかわり、1730年(享保15)上州沼田から本多正矩(まさのり)が4万石で入封して、初めて藩主家は固定した。藩主家の激しい交代は、土屋政直以降、大坂城代・京都所司代への就任に関係したものであるが、なかには酒井忠能のように兄忠清(ただきよ)の大老失脚に連座して除封された者もいた。本多氏の領地は、飛び地として下総(しもうさ)国内に1万1500石余があてられていたが、主たる所は田中城周辺の志太(しだ)・益津(ましづ)両郡下で与えられていた。正矩から正珍(まさよし)、正供(まさとも)、正温(まさはる)、正意(まさおき)、正寛(まさひろ)、正訥(まさもり)と7代にわたって在封、明治に至ったが、この間、正珍老中、正意若年寄、正訥駿府(すんぷ)城代など幕政の枢機にも参画していた。1816年(文化13)の百姓一揆(いっき)は、指導者処刑の6月28日を「首斬(くびき)り正月」とする義民伝承を生み、領内上新田に住む百姓青野三左衛門(さんざえもん)は大蔵永常(おおくらながつね)と交流、永常の『除蝗録(じょこうろく)』述作に影響を与えたといわれる。藩校日知館の存在も地域文化の形成に大きな役割を果たした。1868年(明治1)徳川宗家による駿府藩(静岡県)の立藩により上知、安房(あわ)国(千葉県)長尾に転封となった。
[若林淳之]