東村(読み)ひがしむら

日本歴史地名大系 「東村」の解説

東村
ひがしむら

面積:四〇・三八平方キロ

那須山地と阿武隈高地に挟まれた平均標高二九〇メートルの小群山で形成され、北に阿武隈川、南東部をやしろ川が流れる。社川の支流矢武やぶ川が東流する地域に位置する。南は東白川郡棚倉たなぐら町、表郷おもてごう村、北は石川郡石川町、中島なかじま村・泉崎いずみざき村、東は石川郡浅川あさかわ町、西は白河市に接する。縄文時代の深仁井田の原田ふかにいだのはらだ遺跡、弥生時代の栃本の桝形とちもとのますがた遺跡、古墳時代の形見かたみの形見古墳群、栃本の桝形古墳群など原始・古代の遺跡がある。とくにこの地の古墳からは、白河国の豪族が当村域に勢力を張っていたことが考えられる。白河関や白河郡衙(現泉崎村)とのかかわりも深い。また上野出島の佐平林かみのでじまのさへいはやし遺跡は奈良時代―平安時代の高床式や倉庫風の建物や竪穴住居の遺構が検出され、松田まつだ郷の有力豪族が居住していた遺跡と思われる。


東村
ひがしむら

[現在地名]那覇市東町ひがしまち

那覇の南東部に位置。那覇四町の一で、東は久茂地くもじ川、西は西にし村、北は久米村くにんだ、南は唐船小堀とーしんぐむいを挟み属村の渡地わたんじ村。那覇東村とも称される。「喜安日記」に村名はみえず、琉球国高究帳でも西村とともに真和志まーじ間切の那覇町として把握されている。東村は西村とともに那覇の中心で、公官衙や寺院・商家、士や町百姓の家が密集していた。北に善興ぜんこう(久米村籍内)下天妃しもてんぴ宮の南に親見世うえーみし那覇里主所なーふあさとうぬしどうくる、さらに冊封使の宿舎となった天使てんし館があり、これらの前の広場が「中山伝信録」など歴代の冊封使録に記される那覇の大市にあたる。広場の西側、親見世の南にえびす堂、大市から村の中央を南下する東道ひがしみちの両側に町家(商家)が立並んでいた。東道の突当りには薬師堂があり、渡地村への思案しあん橋が架けられていた。


東村
ひがしむら

[現在地名]宮代町百間もんま 東・なか逆井さかさい山崎やまざき西原にしばら姫宮ひめみや川端かわばた宮東みやひがし中島なかじま道仏どうぶつ・百間、川端かわばた一―四丁目・東姫宮ひがしひめみや一―二丁目

中村の東にあり、東は古利根川を隔てて葛飾郡堤根つつみね村・本郷ほんごう(現杉戸町)、南は内牧うちまき(現春日部市)。寛永三年(一六二六)五月永井豊前守(直貞)は、徳川氏から「太田庄東村」で七〇〇石を宛行われた(記録御用所本古文書)。もと百間村の一部でその中心地であったが、元禄八年(一六九五)に分村して一村となった(風土記稿)。元禄郷帳に百間と肩書して村名がみえ、高七五〇石。


東村
ひがしそん

面積:八一・七九平方キロ

沖縄島北部東海岸側にある国頭郡の村。太平洋に面している。北は国頭村、西は大宜味おおぎみ村、南西は名護市に接する。集落は海岸を通る国道三三一号と、それから分岐する主要地方道国頭―東線沿いに立地している。名護市からバスも運行されているが、便数は多くない。しかし前記の国道・主要地方道が整備され、陸上交通の面では便利になっている。康熙一二年(一六七三)久志くし間切が新設された際、国頭方名護なぐ間切に属していた現在の東村の地域が久志間切に編入された。現在の川田かわた有銘あるめ慶佐次げさし平良たいらの各字は名護間切の村名として絵図郷村帳・琉球国高究帳で確認できる。


東村
ひがしむら

[現在地名]大津市大石東町おおいしひがしちよう

瀬田せた川東岸にあり、南部で信楽川が合流する。関津せきのつ道が通り、北は瀬田川に迫る妙見みようけん山を左手にして関津峠を越えると田上たなかみ各村、東は富川とみかわ村から信楽へ抜ける。中世は大石庄の内、近世は大石五ヵ村の内として推移。地内浄土じようど寺の裏山には大石家歴代の墓と大石良信の屋敷跡が残る。良信は元禄一五年(一七〇二)吉良家討入で知られる大石良雄の四代前にあたる人物。大石家は藤原秀郷(俵藤太)の末裔で、大石庄の下司職を勤め良信の次男良勝が浅野家に仕えるようになった。良信の嫡男良照は大石に残り、先祖からの地を守った。江戸期を通じて膳所藩領。寛永石高帳に村名がみえ、高六〇五石、小物成一三石余・同銀一一九匁。慶安高辻帳では田二六九石余・畑二一石余、永荒三一三石余。膳所藩明細帳には大工高一二五石余とある。


東村
ひがしむら

[現在地名]八東町東

才代さいたい村の東、八東川と支流小畑おばた川に囲まれた沖積地に立地し、枝村にみやまえ幸住こうずみ(河住)がある(因幡志)。小畑郷一二ヵ村の一。拝領高は三五八石余。本免五ツ七分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高四五〇石、竈数四〇。「因幡志」では家数五〇、物産に大竹・莨がある。産土神は実取みどり大明神(現実取神社)。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高四九八石余、竈数四四。伴・大竹・梶川・村上・神・鷲見六氏の給地があった(給人所付帳)。享保九年柿原かきはら村御立山内での草刈をめぐって、かつての入会権を復活したい当村と同所に御免地をもち切畑を営む三浦みうら千寿せんじゆ院との間で紛争があり、条件付で当村の草刈が認められている。


東村
あずまむら

面積:一四一・六六平方キロ

勢多郡の東端に位置し、東は栃木県粟野あわの町・葛生くずう町・田沼たぬま町、西は黒保根くろほね村、南は桐生市・山田郡大間々おおまま町、北は栃木県足尾あしお町、利根とね郡利根村。東西一八キロ、南北一二キロ。村の大部分は山地で、南から北にかけてしだいに高く、北端の袈裟丸けさまる山は標高一八七八・二メートル。村界にある主な山は北に二子ふたご(一五五六・四メートル)、東に氷室ひむろ(一一五四・二メートル)根本ねもと(一一九七メートル)がある。村の中央を渡良瀬川が貫流し、これに黒坂石くろざかし川・小中こなか川などの支流が注ぐ。


東村
ひがしむら

[現在地名]今治市東村

天保郷帳には寺河原てらがわら村と記されている。今治平野の南部に位置し、頓田とんだ川下流の南北両岸に広がる村。東は砂浜海岸織田おだはまひうち灘に面し、沖合に平市へいち島がある。北は喜多きた村、西は上神宮かみしんぐう村・徳久とくひさ村、南は古国分ふるこくぶ村・国分村に接する。全村平坦であるが砂層の堆積が著しく、水利不便で畑地が多く、干害を受けやすい。

村中央の三島神社付近は標高三メートルの浜堤上にあたり、集落立地に好適の地で、じようだいを中心に油町・苅屋町・長町・馬屋町・蔵屋敷など町屋敷の小字が並び、中世の城下町拝志はいしの面影を伝えている。


東村
ひがしむら

[現在地名]田辺町大字東

東から南は草内くさじ村、西は防賀ぼうが川を境として河原かわら村、北および東北は木津きづ川。木津川まで水田が広がり、川に近い砂地に茶・綿の畑もみられる。河内国から田辺村・河原村を経て草内渡に至る街道に沿って集落がある。

東村の由来について「綴喜郡誌」には「大字東、往昔室町時代は現在の如く、治水の観念発達せず、堤防溝渠の設備なく、広茫たる砂地にして、川原と連なり、川原村と称し、東西に分ち、西、田辺町大字川原に対して、遂に東村と呼称せしものなりと云ふ」とあり、一方「京都府地誌」は「本村昔ヨリ綴喜郡ニ属シ、南方草内村ト一村タリシカ、慶安中分レ弐村トナル。


東村
ひがしむら

[現在地名]匹見町匹見

現町域のほぼ中央、匹見川の中流に位置。同川に紙祖しそ川・広見ひろみ川が合流し平坦地が広がる。西は西にし村、北東の匹見川上流は下道川しもみちかわ村。匹見川の表匹見峡沿いの往還道は右岸の眼鏡めがね(標高八一九・七メートル)を通る。東の広見川沿いの裏匹見峡を経て五里ごり(一一二一メートル)を越えると安芸国吉和よしわ(現広島県吉和村)へ通じる。五里山の名は吉和までの距離が五里であることによるという。


東村
ひがしむら

[現在地名]佐田町東村

神戸かんど川右岸にあり、西対岸は一久保田ひとくぼた村、北は八幡原やわたばら村、東は飯石いいし反辺たんべ村・大路おおろ村。集落は東本郷ひがしほんごう城川じようかわで構成され、東本郷は神戸川に沿う集落で、城川はその支流に沿う渓谷の中にわずかに展開する緩斜面に耕地や人家が点在する。城川には戦国時代の山城跡が各所の山々に残る。元和七年(一六二一)の東村御検地帳写では田方一二町七反・分米一七〇石余、畑方六町一反余・分米四四石余、屋敷数二三(うち役屋敷一八)とある。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では村名がみえない。「雲陽大数録」では高二七〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡南方万指出帳(比布智神社文書)によると高二七三石余、家数五四・人数三七八、牛三一・馬五で、林産物に楮株四千一〇七をあげる。


東村
ひがしむら

[現在地名]上野市東高倉ひがしたかくら

野間のま村の西。北は山地で、南は長田ながた(木津川)と合流する服部はつとり川を越えて落合おちあい付近にも飛地がある。南部の官舎かんじや辺りは石鏃・石斧などの遺物包含地。和銅四年(七一一)設置の新家にいのみ駅もこの辺りと推定され、当時の東海道が東西に走り、条里の遺構も付近に少し確認できる。東寄り中央部の医王寺いおうじ辺りにも石斧や弥生式土器が散布し、医王寺には観音寺跡がある。

貞享四年(一六八七)新検を改め、本高八二〇・一石、平高二〇八〇・三二五石、うち藤堂外記二九九石余のほか、九名の給地は合計一二三一・五四石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数二〇四、人口八八〇、牛六〇、社寺は春日・恵比須・白山、仏土ぶつと寺・深山じんざん寺・観音寺・正福しようふく(真言宗豊山派)妙覚みようかく寺・門西もんせい(宗国史)


東村
あずまむら

面積:六一・一六平方キロ

郡の東南端に位置し、北は桜川村、東は横利根川を隔てて千葉県佐原市、西は江戸崎町新利根村河内かわち村に接し、南は利根川を境に千葉県香取郡神崎こうざき町・佐原市に対する。村の中央を東西に新利根川が貫流し、北部にわずかに標高約三〇メートルの台地が横たわるほかは、香取海かとりうみといわれた旧流海跡の低地である。


東村
ひがしむら

[現在地名]龍野市揖西町小犬丸いつさいちようこいぬまる

かまえ村の西に位置し、村内を小犬丸川が東流する。揖西郡に属し、西は小犬丸村。集落は谷間に形成され、集落東の峠は琴坂ことざかとよばれる。慶長国絵図に「ひかし村」とみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高二二六石余、高一八七石余。正保郷帳では田方一五四石余・畑方三二石余。村高は幕末までほぼ変わらない。


東村
ひがしむら

[現在地名]鴨川市東町

広場ひろば村の北東に位置し、浜荻はまおぎ(現天津小湊町)に通ずる伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。東・西・広場三ヵ村は江戸時代初期までは東条とうじよう村と称し一村であった。元禄郷帳に「東条東村」とみえ、高五八六石余。元文村高帳では幕府領・北条藩領とあるが、天明七年(一七八七)の北条藩領村鑑明細帳(加藤家文書)では北条藩が一村を支配している。文政一〇年(一八二七)同藩主水野氏の上総国鶴牧つるまき(現市原市)への転封により鶴牧藩領となる。


東村
ひがしむら

[現在地名]かつらぎ町笠田東かせだひがし

葛城(和泉)山脈の南斜面から紀ノ川沿岸部にかけて立地。東は広浦ひろうら佐野さや両村。中世は山城神護寺領かせだ庄に含まれた。村内に小名折居おりいがあり、東隣佐野村内の小名折居と一集落をなすが、延徳三年(一四九一)三月日付の田庄四至示注文(宝来山神社文書)に引く寿永二年(一一八三)当時の同庄四至のうちに「限東下居」とみえる。

慶長検地高目録によると村高八一四石余、小物成二・一二四石。丁ノ町組に属し、宝永五年(一七〇八)の伊都郡丁之町組大指出写(中谷正敏氏蔵)によると、当時の家数一七六、人数八〇六、井手一、池七、川船三、御留淵一であった。


東村
あずまむら

面積:三二・九六平方キロ

吾妻郡の東端に位置し、東は沼尾ぬまお川を隔てて渋川市・北群馬郡伊香保いかほ町、南は群馬郡榛名はるな町、西は吾妻町、北は吾妻川を隔てて北群馬郡小野上おのがみ村、中之条なかのじよう町と接する。榛名山の北面いわゆる裏榛名とよばれる地域で、外輪山の一つ烏帽子えぼしヶ岳(一三六三メートル)から吾妻川とつながる同山裾野上にある。全面積の八八パーセントが傾斜の急な山林原野で、耕地は少なく北斜面の標高二六〇メートルから六〇〇メートルのうち平均三五〇メートルのところにある。


東村
ひがしむら

[現在地名]日南町宮内みやうち

鬼林きりん山系の北西麓、蛇行しながら北東流する日野川右岸に位置し、対岸は西にし村。南東の虫祭むしまつり(まご峠ともいう)を越えて井原いばら村に至る。拝領高は一〇四石余、本免は六ツ五分。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一五一石余、竈数一八。「伯耆志」では林四町六反余、家数一七・人数九四、鑪山として間渡山があり、産物は苧・瓦。藪役一〇匁が課されていた(日野郡史)。幕末には矢戸やと村とともに一駄二四貫で一五〇駄の苧を山陽地方に売出している(同書)。寛永二年(一六二五)から毎年四月二日と九月一四日に牛馬市が立っており(日野郡野史)東楽々福ひがしささふく大明神の祭日が市日といわれる。天保九年(一八三八)の巡見一件諸事控(西古家文書)によると、鍛冶屋一に運上銀六〇匁が課されている。


東村
ひがしむら

[現在地名]輪島市町野町東まちのまちひがし

町野川を挟んで南東から北は円山まるやま村・徳成谷内とくなりやち村飛地法師丸ほうしまる真久さんさ村。古くは岩瀬村と称したが、岩瀬川(町野川の別称)に橋を架けたのを機に荒橋村と改称、さらに前田家入部とともに東村と改称したという(能登志徴)。弘治三年(一五五七)八月一〇日銘の石瀬比古神勧請札(石瀬比古神社蔵)に「荒橋村役人 九良三郎」とみえる。かつては渡しがあり、毎年八月の十五夜には月影が二体写ったといい、北国一の月の名所であったという(能登名跡志)。正保郷帳では徳成村・東村が並記され、高三五二石余、田方一七町五反余・畑方五町九反余。承応三年(一六五四)の村御印の高一七七石余、免四ツ六歩(能登奥両郡収納帳)


東村
ひがしむら

[現在地名]坂井町木部東きべひがし

九頭竜くずりゆう川と兵庫ひようご川の堤防に取巻かれた鬼辺きべ(木部)輪中内村落の一。兵庫川左岸の自然堤防に沿って位置する。明治以降木部東の称を用いる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では下木部しもきべ村に含まれ、村名は正保郷帳にみえ、同帳によれば田方一〇六石余・畠方三八九石余。寛永元年(一六二四)以降丸岡藩領。「国乗遺聞」の丸岡藩領の概要を述べた個所に「西ニ福島兵庫東村ノ三村、十郷水ノ下ニ在テ、領内溝渠之理ヲ守リ、小舟ヲ通シテ収租ヲ滝谷ノ倉廩ニ納ム」とあり、兵庫川の水をうみさき水門より引き、木部高柳きべたかやなぎ村などとともに用水としていたが、正保郷帳にも「日損所」と記され、用水には苦労している。


東村
ひがしむら

[現在地名]前原市東

神在かみあり村の東、長野ながの川流域に位置する。東は多久たく村、南はほん村。中世は原田はらだ庄に含まれたとみられ、楠田くすでん寺があった。正保郷帳に川上東かわかみひがし村とみえ、田九〇一石余・畠一八〇石余。「寛文朱印留」には河上東村とみえる。領主の変遷は加布里かふり村と同じ。元禄国絵図では高一千四七九石余。旧高旧領取調帳では高一千五一四石余。明治初年の怡土郡村々覚書(宗家文庫)では家数一三四・人数六三六、牛一・馬五一。明治初期の戸数一三六(うち僧二)・人口六三九(うち医術二)


東村
あずまむら

面積:一八・二〇平方キロ

佐波郡東部に位置し、東は新田につた藪塚本やぶづかほん町・新田町、北は赤堀あかぼり町、西は伊勢崎市、南はさかい町。赤城山南麓の大間々おおまま扇状地南西部にあたり、標高約八五メートル。村域のほぼ中央をはや川が南流する。おもな道に主要地方道桐生―伊勢崎線、伊勢崎―足利線(足利街道)がある。用水は地下水面が深いため苦労したが、岡登おかのぼり用水、早川・用水溜などから引く。中世には新田庄と淵名ふちな庄の境に位置した。当地方では製糸・機織も行われ、絹は桐生新町きりゆうしんまち(現桐生市)、伊勢崎町、大間々(現山田郡大間々町)、境(現境町)の各市場に運ばれた。


東村
ひがしむら

[現在地名]浜松市東町

天竜川の下流右岸に位置し、西は西にし村、東は芋瀬いもせ村、南は長十郎ちようじゆうろう新田村。耕地の一部が鶴見つるみ輪中に属した。松平忠頼領郷村帳では高一四石余、田二反余・畑三町一反余、うち川成三石。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録でも高一四石余、同所野銭一三石余(代五貫五〇〇文)。同五年には幕府領(池田河西代官所高帳)。正保郷帳では田二石・畑一二石余、東光とうこう寺領二石余、天王(天王社)・新か脇(現椎河脇神社)領各一石余。領主は正保郷帳、国立史料館本元禄郷帳、享保郷村高帳、旧高旧領取調帳とも幕府領。


東村
ひがしむら

[現在地名]龍神村東

日高川と支流丹生にうノ川の合流地辺りに開かれた村。東は丹生ノ川の上流丹生野川にうのがわ村、西は日高川を挟んで西にし村。慶長検地高目録では村高二七四石余、小物成三・五六五石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば、田畑二七町二反余で村高二九〇石余、家数九六で内訳は本役二八、半役二〇、無役四五、大庄屋・小庄屋・肝煎各一、人数四二五、牛三二、鉄砲二三、山家同心二であった。山地組に属し、この時、当村の松本家が同組の大庄屋を務めている。のち大庄屋は広井原ひろいはら村の小川家が継いだ。


東村
ひがしむら

[現在地名]静岡市東・柳原やなぎはら

きた村の南に位置し、西は有永ありなが村。浅畑あさばた七郷の一つで(駿河志料)、中世には浅服あさはた庄のうちに東郷があった。領主はいけ村と同じ。元禄郷帳では高四八二石余。「駿河記」では家数五〇。嘉永三年(一八五〇)の村高人別其外書上帳(岩崎家文書)では家数五一・人数二九八、うち三〇人が江尻えじり宿(現清水市)助郷充当であった。


東村
ひがしむら

[現在地名]北勢町東村

治田新貝はつたしんがいの南、員弁川の西に位置する。治田郷八ヵ村の一つ。「五鈴遺響」は地名の由来を郷内東部に位置する故としている。「勢陽雑記」には東友ひがしとも村、「布留屋草紙」にも東友とあり、「五鈴遺響」はこれを旧村名としている。慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば幕府領で高六六五・八七石。他の七村同様、享保一一年(一七二六)から明治維新まで上総一宮藩領。明治五年(一八七二)の村明細帳(徳川林政史蔵)によると、寛文四年(一六六四)の検地で高六六六石弱のうち、九七石余の無地高、一一石余の川成など除地があるが、元禄七年(一六九四)の検地で一七・七五三石の新田畑が増している。


東村
ひがしむら

[現在地名]加茂町大字例幣れいへい

瓶原みかのはらの北西に位置し、村の南境を伊賀街道が通る。東は登大路のぼりおおじ村に接する。恭仁くに京の大内裏域とされる地の西側にあり、古くは西隣の西村と一村であったといわれる(京都府地誌)。「宗国史」には「西村内分郷」と記される。

承応二年(一六五三)までは津藩藤堂家の知行地であった(宗国史)


東村
ひがしむら

[現在地名]福山市東村町

本郷ほんごう村の西南に位置し、南は西にし(現尾道市)、南東は今津いまづ村、北および西は御調みつぎ(現尾道市)に接する。今津寄りの丘陵上に戸田とだ古墳群がある。元和五年(一六一九)の備後国知行帳では五六七石余、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地で九〇四石余と大幅に増加。


東村
ひがしむら

[現在地名]堺市東八田ひがしはんだ

きた村の東方にある村。大鳥郡に属する。中世は蜂田はちた庄に含まれた。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に「東村」とみえ、隣接する小阪こさか平井ひらい両村と合せて一千二七二石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では一村で記され、幕府領(堺奉行支配)で高三一四石余、ほかに「ほうろく役銀」六〇匁があった。


東村
ひがしむら

[現在地名]三木市口吉川町東くちよかわちようひがし

馬場ばば村の北東、美嚢みの川中流の吉川よかわ谷入口付近に位置する。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となるが、寛永九年(一六三二)に上知されたとみられる(「寛政重修諸家譜」など)。正保郷帳では幕府領で、田方一二一石余・畑方一二石余。元禄郷帳では高一七二石余。


東村
ひがしむら

[現在地名]近江八幡市東町

たけ村の北にある。村高は寛永石高帳では高五三四石余、旗本一宮領。慶安二年書上によると田四九二石余・畑屋敷二五石余・永荒一六石余。元禄郷帳では志摩鳥羽藩領。享保九年(一七二四)大和郡山藩領となる。享保九年大和郡山領郷鑑によれば反別は三一町七反余(うち上田一九町七反余)、家数四五・人数二一〇、医師二・酒屋一(高一〇石)、馬三・牛一。同藩領で幕末に至る。


東村
ひがしむら

[現在地名]守口市東町一―二丁目・大久保おおくぼ町二丁目・同五丁目・藤田とうだ町五―六丁目など

北村の東に位置し、東辺をふる川が流れる。中世の大窪おおくぼ庄の東端にあたるので、この村名がつけられたものであろう。文禄三年(一五九四)の東村御検地写名寄之帳(中西家文書)によると高三六六石余。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳でも同高、ほかに葭年貢高二石八斗、山城淀藩永井尚政領。


東村
ひがしむら

[現在地名]有田市宮原みやはら町東

どう村の東に位置し、岩室いわむろ山麓一帯に集落が広がる。「続風土記」に「古、道村より分れし村なれは方角によりていふなるへし」とある。集落は本村のほか南に伏谷ふせたにがある。慶長検地高目録によれば村高三二〇石余、小物成二斗八升一合。天保郷帳では三七七石余。宮原組に所属。


東村
ひがしむら

正保郷帳では藤原ふじばる郷に属し、田方三石余・畑方二三石余。旧高旧領取調帳に村名がみえない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東村」の意味・わかりやすい解説

東〔村〕
ひがし

沖縄県沖縄島北東部の東海岸にある村。1923年久志村(→名護市)から分離して成立。村名は久志村の東に位置することに由来。伊湯岳(446m)など国頭山地(くにがみさんち)の南東斜面にあり,村域の大半が山地で,狭い海岸でサトウキビパイナップルなどの栽培が行なわれる。畜産も盛ん。福地川をせき止めた人造湖の福上湖は沖縄島の重要な水源の一つ。慶佐次川河口の「慶佐次湾のヒルギ林」は国の天然記念物。村域の一部がやんばる国立公園に属する。国道331号線が通る。面積 81.88km2。人口 1598(2020)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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