〈はやひと〉ともよむ。古代に南九州地方に住み,熊襲(くまそ)のほかに永らく大和政権に服属をがえんじなかった人々を隼人と称した。律令時代に〈夷人雑類〉としての扱いをうけている。それは南九州がシラス地帯で,いわゆる膂宍(そしし)の空国(むなくに)であり,多くは水田耕作に適さず,主として狩猟,漁労を営み,地域的にも孤立し,南方系の文化の影響を濃厚にうけていたことによるものであろう。生活様式を異にし,言語的にも〈訳語(おさ)〉を介さなくては通ぜぬことが,一般の班田農民と差別されることとなったと思われる。だが日本の古代国家が中国の中華思想に倣い,東北部に居住する蝦夷(えみし)と,西南部に住む隼人を,東夷,北狄,南蛮,西戎に擬定した政治的意図による面も見落としてはなるまい。
隼人が第一次的に大和政権の服属下に入るのは5世紀代の仁徳朝ころで,日向の諸県(もろかた)地方を中心としたらしい。《古事記》では仁徳の皇子,墨江中王(すみのえのなかつきみ)の〈近習隼人〉として曾婆訶理(そばかり)の名が見える。《日本書紀》では刺領布(さしひれ)とされるが,領布も訶理(苅)すなわち剣も鎮魂の呪具にちなむもので,隼人が強力な邪霊鎮魂の呪能を持つ部族と考えられていたことを示している。神代紀には,火酢芹(ほすせり)命(海幸)が弟の山幸に敗れて伏罪したとき,みずから狗人(いぬひと)と称したといい,〈火酢芹命の苗裔,諸の隼人ら,今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして,代(よよ)に吠ゆる狗して奉事(つかえまつ)る者なり〉とある。律令時代にも,隼人は隼人司の管掌下にあり,吠声して宮廷守護に当たった。《令集解》職員令では,隼人という名は吠声によると解しているが,海幸が服属したとき〈俳優(わざおぎ)の民〉とならんと誓ったとの隼人舞の起源伝承から,テンポの早いはやしをする人の意で〈はやと〉と名付けたのかもしれない。そのほか,古語に猛勇を〈はやし〉ということより起こるという説(本居宣長),《新唐書》倭国伝にみえる〈波邪(はや)〉の地名によるという説(喜田貞吉),暴風や8月の風を〈はやち〉と称することから,かかる疾風が夏季におそう地域を〈はや〉の地域といったという説(松岡静雄),などがある。
これらの隼人は,日向隼人,大隅隼人,薩摩隼人,甑(こしき)隼人などとそれぞれ地名を冠して呼ばれるが,彼らは地域的に割拠分散し互いに部族集団を結成して対立し,統一的な政治権力を作り上げていなかった。そのことが律令制下でもしばしば反乱を起こしながら鎮圧され,遂には大和政権の統治を許す最大の原因ともなった。その対立は墓制にも見られ,日向・大隅地方では〈地下式土壙墓〉,薩摩半島南東部の指宿市・揖宿(いぶすき)郡には〈立石土壙墓〉,薩摩地方全域には〈地下式板石積石室〉と呼ばれるひじょうに特徴的な隼人の墳墓が造営されていた(横穴)。それに対し,天皇直轄領といわれる県(あがた)が設置された地域,主として軍事上の要衝地ないしは穀倉地帯などには,畿内式の古墳が散在する。宮崎平野,志布志湾の肝属川流域,国分平野,川内川流域などには,それぞれ諸県君,曾君,大隅直,薩摩君などという隼人の有力首長層が蟠踞(ばんきよ)し,周辺部の共同体を傘下に収めていた。朝廷もそれぞれの首長の領域をそのまま郡とし,彼らを統治した。これらの首長層は律令時代には6年1交替で上京し,隼人の方物(地方の特産物)を貢納し,隼人舞や相撲を天皇の前で演じた。一部の隼人は近畿地方に移住させられ,隼人司に属し,竹製品を献じたり,風俗歌舞を奏することが義務づけられていた。《正倉院文書》のいわゆる山背国隼人計帳は,山城国綴喜郡大住郷の大隅隼人の計帳であり,また近江国滋賀郡古市郷の計帳には阿多隼人がみえる。
執筆者:井上 辰雄
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古代の南部九州の居住民。『古事記』『日本書紀』神代巻の、いわゆる海幸(うみさち)・山幸(やまさち)神話に隼人の祖(海幸彦=ホデリノミコトまたはホノスソリノミコト)が登場するが、それを別にすると、両書の履中(りちゅう)天皇の条以後にみえ、7世紀後半の天武(てんむ)朝以後になるとその記事が具体的になってくる。南部九州にはそれ以前クマソ(熊襲、熊曽)が居住していたことが、やはり両書にみえるが、その後身とも考えられる。天武朝以後の隼人は朝廷に朝貢し、相撲(すもう)を見せたり歌舞を奏上したりしているが、8世紀以後はその朝貢が「六年相替」といわれるように定期的になり、その引率者である隼人の首長層はしばしば位を授けられている。また、これより早く大和(やまと)朝廷に服属した隼人の一部は、畿内(きない)各地に移住させられており、屯倉(みやけ)の警衛などにあたっていたとみられる。
7世紀後半の隼人は、その居住地によって阿多(あた)(薩摩(さつま)半島)隼人、大隅(おおすみ)隼人と区分されていたが、8世紀には阿多隼人にかわって薩摩隼人の名称がみられることからすると、隼人の居住地は概して現在の鹿児島県を主体としていたのであろう。8世紀になって薩摩・大隅両国が日向(ひゅうが)国から分立し、律令(りつりょう)支配が浸透すると、隼人は朝廷に対し抵抗し、720年(養老4)には大規模な抗戦を起こした。このとき、大隅国守陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)が殺され、大伴旅人(おおとものたびと)を持節大将軍とする征隼人軍が派遣されている。律令制では衛門府(えもんふ)に隼人司が設置されており、元日・即位などの祭儀に参加するほか竹細工などの製作にあたっている。隼人の系統についてはインドネシア系などとする説があるが明らかでない。
[中村明蔵]
『大林太良編『隼人』(1975・社会思想社)』▽『中村明蔵著『隼人の研究』(1977・学生社)』
鹿児島県中央部、姶良郡(あいらぐん)にあった旧町名(隼人町(ちょう))。現在は霧島(きりしま)市の南部を占める。旧隼人町は1954年(昭和29)隼人、日当山(ひなたやま)の2町と清水(きよみず)村の一部が合併して隼人日当山町となり、1957年隼人町と改称。町名は国指定史跡の隼人塚による。2005年(平成17)同郡溝辺(みぞべ)、横川(よこがわ)、牧園(まきぞの)、福山(ふくやま)、霧島の5町及び国分(こくぶ)市と合併し霧島市となった。旧隼人町域の北部はシラス台地の十三塚原、南部は天降川(あもりがわ)の三角州からなり、JR日豊本線(にっぽうほんせん)と肥薩線(ひさつせん)、国道10号、223号、504号が通じる。古代南九州の中心で条里遺構の坪地名が残る。戦国時代末期に浜之市港(はまのいちこう)が開かれてから、商業、交通の要地として明治まで栄えた。農業が主産業で、タバコやダイコンのほかトマトの施設園芸が盛ん。繊維、電機などの工場も進出し、隣接の国分地区とともに国分隼人テクノポリスの指定を受けている。国民保養温泉地の日当山温泉は炭酸水素塩泉で、付近には大隅一宮(おおすみいちのみや)の鹿児島神宮もあり、鹿児島市の奥座敷と称される。
[白石太良]
『『隼人郷土誌』(1985・隼人町)』
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古代の南九州の居住者に用いられた呼称。畿内近国に移住させられた人々も隼人とよばれた。呼称は天武朝以降に成立・使用されたらしく,隼人は「夷人雑類」とされて野蛮人視された。朝廷は衛門府(のち兵部省)管下に隼人司をおき,朝貢隼人・畿内隼人を統轄させ,その呪力や軍事力を利用した。大隅・薩摩両国への班田制導入と朝貢停止により,9世紀には南九州の居住者が隼人とよばれることはなくなり,畿内隼人が即位・大嘗祭などの朝廷儀式に参加した。
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…(3)北上高地と三陸沿岸地帯 岩手県の東半分を占める高地(山地)で,なだらかな準平原が続き,高い山の少ないかわりに奥行きの深い山系である。一段と高い早池峰(はやちね)山(1914m,国定公園)や五葉(ごよう)山,兜明神(かぶとみようじん)岳,姫神山などの山々は,浸食から残された残丘である。この山地では砂鉄を多く産し,燃料の木炭と結びついて砂鉄製鉄が盛んとなり,17世紀中ごろ以後,藩の奨励もあって南部鉄器の製造業が発展した。…
※「隼人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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