日本歴史地名大系 「大井神社」の解説 大井神社おおいじんじや 京都府:亀岡市並河村大井神社[現在地名]亀岡市大井町並河並河(なみかわ)の集落北にある。「延喜式」神名帳にある桑田郡大井神社に比定される。祭神は御井神・月読命・市杵島姫命。旧郷社。並河・大井・宇津根(うつね)・勝林島(しようりんじま)・土田(つちだ)・北金岐(きたかなげ)・南金岐・太田(おおた)各村の氏神である。社伝によれば、和銅三年(七一〇)の創建、貞観八年(八六六)に競馬を許され、天正四年(一五七六)兵火にかかり、同一二年豊臣秀吉が社殿を再興、造営奉行の片桐且元は「正一位大明神」の扁額を奉納したという。「桑下漫録」所引の「盥魚」によれば、往古山城松尾(まつお)社(現京都市西京区)の中津大神が亀に乗り大堰(おおい)川をのぼったが、八畳岩の辺りから水勢が強くなったため鯉に乗り移って在元淵(ざいげんぶち)に至った。 大井神社おおいじんじや 京都市:右京区天龍寺門前村大井神社[現在地名]右京区嵯峨天龍寺造路町大堰(おおい)川(桂川)の北岸、臨川(りんせん)寺の西にある小社で、堰(い)神社または大橋(おおはし)神社ともいう。祭神は倉稲魂神。旧村社であるが、現在は松尾(まつお)大社の末社となっている。秦氏が大堰をつくってこの地を開拓した時に、治水の神として祀ったのが起りであるとか、「三代実録」貞観一八年(八七六)七月二一日条に「授加賀国正六位上白鳥神、郡家神、山代大堰神、並従五位下」とある山代大堰神であるとか、また「延喜式」(神名帳)の乙訓(おとくに)郡大井神社のことで、乙訓郡は葛野(かどの)郡の誤写である、といった諸説がある(嵯峨誌)が不明。 大井神社おおいじんじや 愛知県:名古屋市北区如意村大井神社[現在地名]北区如意二丁目祭神罔象女命・速秋津彦命・速秋津姫命。旧村社。創建について「西春日井郡誌」は「明徳四年石黒大炊助重行、奥州塩竈六所明神の尊像を負ひて、尾州に来り、春日部郡如意郷に潜居し、宅地を構へ、姓を変じて長谷川重行と称せり。重行の子、石黒右馬頭藤原朝房、嘉吉二年壬戌三月、本社を改めて造営し、相殿に六所明神を勧請せし」と記す。「寛文覚書」に「六社大明神」とあり、「塩尻」に「六所明神ハ、式内大井神社也社北大井ノ池アリ」とあって、神社の北の池が大井ノ池といわれたので、「延喜式」にみえる大井神社をこの六所明神にあてて以来、「府志」以後の諸書も、そのように記す。 大井神社おおいじんじや 茨城県:水戸市飯富村大井神社[現在地名]水戸市飯富町国道一二三号の西の高台に位置し、東方に那珂川を望む。祭神は建借馬命。旧村社。「三代実録」の貞観七年(八六五)一二月二一日条に「正六位上大井神従五位下」とあり、「延喜式」神名帳の那賀郡七座に小社として「大井(オホイ)神社」とみえる。社伝によると、奈良時代に郡領宇治部氏の奉斎と思われ、承平年間(九三一―九三八)大掾平繁盛、意富臣の族の松本家秀が大宮司を務めた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by