田辺町(読み)たなべまち

日本歴史地名大系 「田辺町」の解説

田辺町
たなべまち

[現在地名]田辺市紺屋こや町・ほん町・かた町・さかえ町・北新きたしん町・福路ふくろ町・今福いまふく町・南新みなみしん町・上屋敷かみやしき町・中屋敷なかやしき町・下屋敷しもやしき町・新屋敷しんやしき町・江川えがわ

秋津あきづ川の下流おお(現会津川)左岸の河口平地に、慶長一一年(一六〇六)経営された城下町をその始まりとする。当地は熊野街道中辺路・大辺路の分岐点であるとともに田辺湊をひかえた水陸交通の要衝で、熊野別当一八代湛快により現闘鶏とうけい神社が勧請されたと伝え、湛快の子湛増(二一代熊野別当)は同社付近に坊舎を構えていたらしい。こうした関係からか室町時代には熊野社領田辺庄が成立していた。

〔浅野氏時代〕

天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の紀州平定により、和歌山城に秀吉の弟秀長の家臣桑山重晴が入り、芳養はや泊山とまりやま城には同家臣杉若無心が一万九千石を与えられて入った。無心は同一八年上野山うえのやま城に移るが、城下には小規模ながら城下町が形成されていた。慶長五年の関ヶ原の戦後、紀伊国は浅野幸長の領知下に入り、幸長の重臣浅野左衛門佐氏重が三万五千石を知行して田辺に配され、上野山城に居城した。同六年浅野氏により紀州一円の検地が行われたが、慶長検地高目録は上野山城下を「田辺町」としている。同八年軍事・経済上の理由からか、江川東南端の洲崎すざきに築城(洲崎城)、しかし洲崎城は同一〇年八月完工一年未満にして大浪で破壊された(万代記)

同一一年対岸の平地みなと村の西南端に城地を定め、築城とともに城下町が経営された。「万代記」に同年のこととして「田辺湊村御城普請始」「湊村城へ御移被成候町々附替田辺町割極」とある。

田辺町
たなべちよう

面積:四三・六一平方キロ

綴喜郡の西に位置し、西北八幡やわた市、木津きづ川を隔てて東北に城陽市、東に井手いで町、南は相楽郡精華せいか町、西は奈良県生駒いこま市と大阪府枚方ひらかた市に接する南北に長い町。木津川西岸の沖積平野を除く大部分は一〇〇―二〇〇メートルの洪積丘陵である。町内を国鉄片町線・近鉄京都線と、枚方から東方の宇治田原うじたわら町を経て滋賀県に至る国道三〇七号が通る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田辺町」の意味・わかりやすい解説

田辺〔町〕
たなべ

京田辺市」のページをご覧ください。

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