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伊賀国 いがのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊賀国
いがのくに

現在の三重県北西部。東海道の一国。下国。もと伊賀国造が支配。初め伊勢国に含まれていたが,天武9 (680) 年独立して一国となる。壬申の乱 (672) で知られる大友皇子 (→弘文天皇 ) の母伊賀宅子は伊賀国出身の采女であった。国府は伊賀市一之宮,国分寺は伊賀市西明寺。『延喜式』には阿拝 (あべ) ,山田 (やまた) 郡,伊賀 (いが) 郡,名張 (なはり) 郡の4郡,『和名抄』には郷 18,田 4051町余が記載されている。東大寺領荘園が多く,黒田,板蠅,玉滝などの (そま) が史上に名高い。鎌倉時代には大内氏,山内氏,千葉氏が守護。南北朝時代から室町時代にかけては千葉氏,仁木氏,高氏,桃井氏の支配を経て,慶長 13 (1608) 年藤堂高虎の領地となり,幕末にいたる。明治4 (1871) 年7月,廃藩置県により津県となり,同年 11月には安濃津県,さらに明治5 (1872) 年,三重県に編入。

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デジタル大辞泉の解説

いが‐の‐くに【伊賀国】

伊賀

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百科事典マイペディアの解説

伊賀国【いがのくに】

旧国名。伊州とも。東海道の一国。現在,三重県北西部。《延喜式》に下国,4郡。畿内から東海道への出口として重要視され,古代末期に平氏の勢力下にあり,中世には大内・千葉・仁木(にっき)・畠山・滝川・筒井氏らが領有,近世初期津藩に属して明治に至る。
→関連項目近畿地方黒田荘平正盛三重[県]

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

いがのくに【伊賀国】

現在の三重県西部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の伊賀市一之宮(いちのみや)、国分寺は同市西明寺(さいみょうじ)におかれていた。古くから東大寺など寺社の荘園(しょうえん)が多く、鎌倉時代大内氏千葉氏南北朝時代から室町時代には仁木氏が守護となったが、在地土豪が強く、実権は彼らの形成する連合体としての惣(そう)の手にあった。1581年(天正(てんしょう)9)に織田信長(おだのぶなが)が攻略、1608年(慶長(けいちょう)13)には藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊賀上野城主(津藩)となり、その後幕末まで同氏の一国支配が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県により、津県、安濃津(あのつ)県を経て1872年(明治5)に三重県と改称、1876年(明治9)に南部の度会(わたらい)県と合併し、現在の三重県が成立した。◇伊州、賀州ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

いがのくに【伊賀国】

旧国名。伊州。現在の三重県西部にあたる。
【古代】
 東海道の西端に位置する下国(《延喜式》)。当初は伊勢国に属し,680年(天武9)に4郡を割いて分国したと伝える。《和名抄》によれば,阿拝(あえ),山田,伊賀,名張の4郡18郷からなり,田数は4051町1段41歩。国府は上野市印代の東部に比定され,国分寺址はその約3km南の同市西明寺に残る。一宮は上野市敢国(あえくに)神社。律令制以前より大和南部の磯城泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが,平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居,柘植(つげ)を通り伊勢に向かう通路が重視された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

伊賀国
いがのくに

三重県北西部の旧国名。東海道に属する。680年(天武天皇9)伊勢(いせ)国の一部を割いて成立。阿拝(あへ)、山田、伊賀、名張(なばり)の4郡を管した。東は布引(ぬのびき)山脈が伊勢国との分水嶺(ぶんすいれい)をなし、南と西は大和(やまと)国に接し、北は近江(おうみ)国と境を分かつ。東西約30キロメートル、南北約35キロメートル。国府は、現在の伊賀市一之宮にあった。大和に隣接するため、弥生(やよい)土器や住居跡は各地に散在し銅鐸(どうたく)も発見される。先土器文化や縄文土器・石器もしだいに発見され、伊賀の歴史の古さがわかる。古墳時代から大和朝廷時代、伊賀川沿いに宇陀(うだ)の地から南大和の先進文化が伝わり、奈良時代には木津(きづ)川が大和とこの地を結ぶ。美旗(みはた)古墳群(名張市新田(しんでん))、石山古墳(伊賀市才良(ざいりょう))、御墓山(みはかやま)古墳(同市佐那具(さなぐ))など三重県内最大の規模を誇る古墳、中央文化の浸透を示す三田廃寺(みたはいじ)(伊賀市三田)、国分寺址(あと)(同市西明寺(さいみょうじ))、鳳凰寺(ぼうじ)跡(伊賀市鳳凰寺)、条里制遺構(伊賀市)などがある。壬申(じんしん)の乱(672)には、大海人皇子(おおあまのおうじ)は吉野から隠(なばり)(名張市)、伊賀郡家(ぐんけ)(伊賀市神戸(かんべ))を通り柘植(つげ)(伊賀市)より伊勢に向かった。律令(りつりょう)体制の崩壊は荘園(しょうえん)的大土地所有体系の進展を促し、東大寺は北部の玉滝(たまたき)、鞆田(ともだ)両庄(しょう)と南部の黒田庄を領有する一大荘園領主となる。それと並行して藤原道長(みちなが)一門の寄進地系荘園が成立、それに興福寺、伊勢神宮などの荘園を加え伊賀はほとんど荘園化した。鎌倉時代、武士の台頭により荘園は侵略されたが、勃興(ぼっこう)した在地土豪と中央武家政権との結び付きは断絶した。守護は、鎌倉時代に大内、山内首藤(すどう)氏ら、南北朝・室町時代に仁木(にき)、北畠(きたばたけ)氏らが任ぜられたが、土豪に入部を阻まれて勢力を張ることはできなかった。一方、在地土豪らも守護大名へと成長する有力者もなく、室町時代の伊賀は彼らによる連合支配が行われていた。
 この伊賀に壊滅的な打撃を与えたのが1581年(天正9)の天正(てんしょう)伊賀の乱で、伊賀は織田信長によって平定され、ついで豊臣(とよとみ)秀吉の世には1585年筒井(つつい)定次が封ぜられ、初めて上野に築城、かわって1608年(慶長13)藤堂高虎(とうどうたかとら)が入封した。かくて上野は、津藩伊賀10万石の城下町として人口約1万2000を数えるに至った。俳人松尾芭蕉(ばしょう)は伊賀上野の郷士で、上野には芭蕉ゆかりの五庵(あん)がある。上野天神祭の山車(やま)、能面、伊賀傘(かさ)、伊賀焼、組紐(くみひも)は、伝統的文化と産業の象徴である。1871年(明治4)廃藩置県によって津藩は安濃津(あのつ)県となり、1876年度会(わたらい)県と合併して三重県に編入された。[原田好雄]
『中貞夫著『名張市史』2巻(1960、1961・名張地方史研究会) ▽『上野市史』(1961・上野市)』

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