伊賀国(読み)イガノクニ

デジタル大辞泉 「伊賀国」の意味・読み・例文・類語

いが‐の‐くに【伊賀国】

伊賀

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日本歴史地名大系 「伊賀国」の解説

伊賀国
いがのくに

北は水口みなぐち丘陵・信楽しがらき高原で近江国、西は笠置かさぎ山地・大和高原で山城国・大和国、南は室生むろう山系で大和国、東は鈴鹿山脈・布引ぬのびき山地で伊勢国に接する。

国名・国境

〔国名〕

「日本書紀」雄略天皇一八年条に、伊勢の朝日郎が官軍を迎えて「即ち伊賀の青墓に逆ち戦ふ」とみえ、国名は同書宣化天皇元年条に「阿倍臣は、伊賀臣を遣して、伊賀国の屯倉の穀を運ばしむべし」、天武天皇二年八月九日条に「伊賀国に在る紀臣阿閉麻呂等に、壬申の年の労勲之状を詔して、顕に寵賞す」などと出る。壬申の乱(六七二)において、六月二四日吉野よしの(現奈良県)を脱出した大海人皇子は「即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山にいたりて、当国の郡司等、数百の衆を率てりまつる」(日本書紀)と、当国を通過して東へ進んだ。「当国の郡司等」は「伊賀国に在る紀臣阿閉麻呂等」であろう。なお伊賀を縦断した道が、当時の東海道うみつみちであろう。

〔境界〕

伊賀国は四周を山に囲まれ、古代以来ほぼ領域は固定していた。しかし近世に入って幕藩体制が確立し、幕府により国絵図の作製などが命じられると、中世以来入会地として国境の明確でなかった山中まで境を明示することが要求され、他藩と境を接する地帯では幕府の裁定をもって国境が決定された。

大和国との境界は大化改新の詔に「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来」(日本書紀)とあり、他の用法に照らし名墾の横河なばりのよこかわ以西は畿内であった。天平勝宝七年(七五五)一二月二八日の存疑孝謙天皇勅施入文案(東大寺文書)の名張郡板蠅いたばえ杣の四至に「東限名張河 南限斎王上路 西限小倉倉立小野 北限八多前高峯并鏡滝」とあり、南の斎王上路さいおうじようろは現名張なばり安部田の鹿高あべたのかたか神社あたり、西の小倉倉立おぐらのくらたちは現奈良県山辺やまべ山添やまぞえ村小倉の中央部、小野こおのは現同郡の神野こうの山、八多前高峯はたさきのたかみねの八多は波多はたで現山添村、鏡滝かがみのたきは同村中峯山ちゆうむざんの春日神社社地にあったという。これをみると伊賀国名張郡板蠅杣は現在の奈良県山添村・つげ村にわたっていたと考えられる。この地域がいつ頃まで伊賀であったか不詳だが、一部は江戸時代初期まで入会地として続いたようである。大和国と名張郡十数ヵ村との山論は「永保記事略」元禄六年(一六九三)五月七日条に「名張郡十三ケ村と和州山辺郡四ケ村山論之義(あつかい)にて相済候事」とあり、一応決着した。

南境も同様で、承平四年(九三四)一二月一九日の伊賀国夏見郷刀禰解案(光明寺古文書)に「伊勢大神宮所領地山河四至事」として「東限高回河、其河後伊賀郡阿保村主 南限大和国水堺 西限栗河、在夏見郷夏見村主 北限大地頭在」とあり、四至所在地名として「比奈知 針生 長木 布乃布 大野 大良牟 色豆 上家 菅野 土屋原 曾児 高羽」が記される。

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改訂新版 世界大百科事典 「伊賀国」の意味・わかりやすい解説

伊賀国 (いがのくに)

旧国名。伊州。現在の三重県西部にあたる。

東海道の西端に位置する下国(《延喜式》)。当初は伊勢国に属し,680年(天武9)に4郡を割いて分国したと伝える。《和名抄》によれば,阿拝(あえ),山田,伊賀,名張の4郡18郷からなり,田数は4051町1段41歩。国府は伊賀市の旧上野市印代の東部に比定され,国分寺址はその約3km南の旧同市西明寺に残る。一宮は旧同市敢国(あえくに)神社。律令制以前より大和南部の磯城,泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが,平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居,柘植(つげ)を通り伊勢に向かう通路が重視された。都に近接していたため奈良期より大寺院の杣や荘園が設けられ,平安中期には国内に膨大な所領を有する藤原実遠のような大規模な私営田領主(私領主)も出現したが,その没落後は平安末期にかけて,東大寺,興福寺,春日社,伊勢神宮,摂関家などの所領が立てられた。
執筆者:

伊賀国4ヵ郡のうち,とくに北伊賀の阿拝,山田両郡は11世紀末以降,平正盛,忠盛父子のころから伊勢平氏の基盤となり,平家の一族・郎等が勢力を築いていた。しかし,治承・寿永の内乱は伊賀国の政治状況を一変させる。1184年(元暦1)7月,伊賀の平家方勢力(山田郡の平田冠者家継や名張郡黒田新荘下司紀七景時ら)は,この年守護として伊賀に入部した大内惟義を襲撃し,逆に鎮圧される。さらに平家滅亡後20年近く経過した1204年(元久1)平家方の残党が伊勢,伊賀両国に蜂起し,両国守護山内首藤刑部丞経俊を追却する。これに対し鎌倉幕府は平賀朝雅を派遣し鎮圧するが,伊賀国では名張郡六箇山に数日間立てこもり根強い抵抗を示す(三日平氏の乱)。以上の事件は平家の勢力がいかに強く伊賀国に浸透していたかを物語っている。

 没落した平家一党に代わって伊賀国に勢力を築いた在地勢力は,国衙に近い阿拝郡服部郷を名字の地とする服部氏,同じく柘植村を名字の地とする柘植氏,名張郡黒田荘の荘官を一族で占める大江氏,伊賀郡大内荘の加藤氏などである。鎌倉中期に伊賀守護となり幕府滅亡までその任にあった千葉氏は,鎌倉時代の守護が多くそうであったように,在地の武士を被官化することはできない。これら在地領主勢力が対決したもう一つの勢力に荘園領主勢力がある。中でも奈良の東大寺は平安後期以降北伊賀の玉滝荘,南伊賀の黒田荘を中心に荘域拡大と一円的支配の実現にむけて努力するが,鎌倉前期には阿拝郡の玉滝荘・鞆田(ともだ)荘・湯船荘・槙山荘・内保荘,山田郡の山田有丸荘・広瀬荘・富永荘・阿波荘・馬野荘,伊賀郡の別符荘・桂荘,名張郡の黒田荘・簗瀬(やなせ)荘・薦生(こもう)荘などの所領をなんらかの形で所有する存在となっている。とくに名張郡内諸荘の直務支配を強力に推し進め,郡全域の一円的支配を実現しようとした。この荘園領主東大寺の政策は,黒田荘の荘官として,在地領主として発展しようとしていた大江氏一族の勢力と衝突することになる。東大寺は彼らが幕府の御家人となることを否定し,また守護使不入権を獲得して名張郡の人と土地を一元的に支配しようとした。こうした状況下で在地領主の一部は反東大寺の行動を示し,東大寺は彼らを悪党として弾圧しようとする。この名張の悪党は城郭を構え,東大寺使である公人や神人を殺害し,年貢・公事を抑留した。東大寺は六波羅探題に悪党鎮圧の使節の発遣を要請し,六波羅は守護代や有力御家人である服部氏や柘植氏を差し向けようとするが,鎮圧できないまま南北朝内乱の時代を迎える。

 鎌倉末期に名張悪党の鎮圧に差し向けられた北伊賀の有力御家人服部持法(じほう)は,南北朝時代になると逆に東大寺領を押領する悪党として守護に追捕される立場となる。北伊賀の悪党には柘植新左衛門尉,山田十郎左衛門,河合新左衛門尉,長田中務丞,滝孫四郎保氏,高山十郎保光など北伊賀の在地領主層が名を連ねる。彼らにとって対決の対象は,この段階ではもはや東大寺など荘園領主ではなく,悪党としての彼らを弾圧する守護であった。服部党,柘植党,河合党などが連合して一種の国人一揆を形成したこの北伊賀悪党は,隣接する近江の多羅尾一族とも手を結び守護に対抗した。一方,南伊賀名張の悪党は後醍醐天皇の南朝勢力と結び1337年(延元2・建武4)には守護仁木義直が城郭を構えた楽音寺を攻撃している。しかし以上のような悪党の動向も,14世紀中葉になるとその活動は史料に見えなくなる。すなわち南伊賀では南朝勢力および東大寺の衰退とともに名張の悪党もその活動を停止し,やがて隣接する大和の沢,秋山,芳野氏などの勢力や,伊勢の北畠氏の勢力下に入ったものと思われる。北伊賀では守護仁木氏が60年(正平15・延文5)に没落すると,北伊賀悪党の活動は史料上に登場しなくなる。彼らのその後については不明な点が多いが,服部党を中心とする国人一揆連合が守護勢力と対抗しつつ,その支配を伊賀一国に及ぼしていったと思われる。

 このように伊賀国では守護領国化が進まず,国人領主による一揆連合が伊賀の主要部を支配するという特殊な形態が生じた。これが有名な伊賀惣国一揆である。国人領主66名は伊賀上野の平楽寺で談合・評定を行い,掟法を定めたという。伊賀惣国一揆では,重要事項は全員の会合によって決定し,日常的な政務処理は10名の奉行が担当した。惣国一揆は地域的な国人らの結合体“惣”を基礎単位としていた。神宮文庫所蔵の年未詳11月16日付けの〈惣国一揆掟之事〉と題する11ヵ条にわたる伊賀惣国一揆掟書は,16世紀後半,三好方あるいは大和国人と伊賀惣国一揆がまさに戦闘に入らんとする時点で作成されたものと思われ,一国の17歳から50歳までの侍,足軽を動員しようとした点など興味深い内容をもつ。このような伊賀惣国一揆も,1581年(天正9)9月織田信長の命によって侵入した織田信雄(のぶかつ)の軍勢によって滅ぼされ,伊賀国内の諸城館,寺社は灰燼に帰し,惣国一揆の存在を現在に伝える史料は,伊賀国にはまったくと言ってよいほど存在しない。
執筆者:

1581年に織田信長が大軍を投入して平定(伊賀の乱),〈亡所〉と記されたほどの徹底した破壊は,農村構造にも大きな影響を与えた。以後,滝川,脇坂氏を経て,85年,豊臣秀吉により筒井定次が大和から伊賀5万石に移封され上野に居城を築いた。定次は関ヶ原の戦で東軍に属したが,1608年(慶長13)改易となり,伊予から藤堂高虎が入封した。同年9月に高虎は上野城に入ったが,本城を伊勢津城とし10月上旬に移ったので,以後は城代が配された。その後,36年(寛永13)に高虎の義子高吉が名張郡簗瀬の寨(とりで)に配されて名張家2万石の祖となったが,家臣の最高位という位置を出なかったから,廃藩置県まで津藩の一国支配が続いた。津藩は旧土豪層を無足人(むそくにん)(在郷武士)に取り立て,また伊賀者に採用して,伊賀の安定をはかった。草高は,64年(寛文4)で阿拝,山田,名張,伊賀4郡合わせて10万0540石。

 交通路は,本城津と上野を結ぶ伊賀街道,東国路(江戸道),京師道,木津川に沿う大和街道,伊勢路(初瀬(はせ)街道)などで他国と結ばれ,上野と名張を結ぶ街道もあった。城下町上野,分家の居所名張,伊賀と畿内の物資中継地で馬借の発達した島ヶ原のほかは,盆地の農山村で,この構造は変動しなかった。新田畑,新用水が初期から開発され,茶,木綿,漆,タバコなども栽培されたが,特産地までには至らなかった。工産品では,伊賀焼,鋳物,刀剣,火縄,漆器,傘などがつくられ,陶器は広く知られた。1871年(明治4)廃藩後の伊賀は安濃津(あのつ)県に属し,翌年三重県と改称,76年度会(わたらい)県と合併して現在の三重県が誕生した。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊賀国」の意味・わかりやすい解説

伊賀国
いがのくに

三重県北西部の旧国名。東海道に属する。680年(天武天皇9)伊勢(いせ)国の一部を割いて成立。阿拝(あへ)、山田、伊賀、名張(なばり)の4郡を管した。東は布引(ぬのびき)山脈が伊勢国との分水嶺(ぶんすいれい)をなし、南と西は大和(やまと)国に接し、北は近江(おうみ)国と境を分かつ。東西約30キロメートル、南北約35キロメートル。国府は、現在の伊賀市一之宮にあった。大和に隣接するため、弥生(やよい)土器や住居跡は各地に散在し銅鐸(どうたく)も発見される。先土器文化や縄文土器・石器もしだいに発見され、伊賀の歴史の古さがわかる。古墳時代から大和朝廷時代、伊賀川沿いに宇陀(うだ)の地から南大和の先進文化が伝わり、奈良時代には木津(きづ)川が大和とこの地を結ぶ。美旗(みはた)古墳群(名張市新田(しんでん))、石山古墳(伊賀市才良(ざいりょう))、御墓山(みはかやま)古墳(同市佐那具(さなぐ))など三重県内最大の規模を誇る古墳、中央文化の浸透を示す三田廃寺(みたはいじ)(伊賀市三田)、国分寺址(あと)(同市西明寺(さいみょうじ))、鳳凰寺(ぼうじ)跡(伊賀市鳳凰寺)、条里制遺構(伊賀市)などがある。壬申(じんしん)の乱(672)には、大海人皇子(おおあまのおうじ)は吉野から隠(なばり)(名張市)、伊賀郡家(ぐんけ)(伊賀市神戸(かんべ))を通り柘植(つげ)(伊賀市)より伊勢に向かった。律令(りつりょう)体制の崩壊は荘園(しょうえん)的大土地所有体系の進展を促し、東大寺は北部の玉滝(たまたき)、鞆田(ともだ)両庄(しょう)と南部の黒田庄を領有する一大荘園領主となる。それと並行して藤原道長(みちなが)一門の寄進地系荘園が成立、それに興福寺、伊勢神宮などの荘園を加え伊賀はほとんど荘園化した。鎌倉時代、武士の台頭により荘園は侵略されたが、勃興(ぼっこう)した在地土豪と中央武家政権との結び付きは断絶した。守護は、鎌倉時代に大内、山内首藤(すどう)氏ら、南北朝・室町時代に仁木(にき)、北畠(きたばたけ)氏らが任ぜられたが、土豪に入部を阻まれて勢力を張ることはできなかった。一方、在地土豪らも守護大名へと成長する有力者もなく、室町時代の伊賀は彼らによる連合支配が行われていた。

 この伊賀に壊滅的な打撃を与えたのが1581年(天正9)の天正(てんしょう)伊賀の乱で、伊賀は織田信長によって平定され、ついで豊臣(とよとみ)秀吉の世には1585年筒井(つつい)定次が封ぜられ、初めて上野に築城、かわって1608年(慶長13)藤堂高虎(とうどうたかとら)が入封した。かくて上野は、津藩伊賀10万石の城下町として人口約1万2000を数えるに至った。俳人松尾芭蕉(ばしょう)は伊賀上野の郷士で、上野には芭蕉ゆかりの五庵(あん)がある。上野天神祭の山車(やま)、能面、伊賀傘(かさ)、伊賀焼、組紐(くみひも)は、伝統的文化と産業の象徴である。1871年(明治4)廃藩置県によって津藩は安濃津(あのつ)県となり、1876年度会(わたらい)県と合併して三重県に編入された。

[原田好雄]

『中貞夫著『名張市史』2巻(1960、1961・名張地方史研究会)』『『上野市史』(1961・上野市)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「伊賀国」の解説

いがのくに【伊賀国】

現在の三重県西部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の伊賀市一之宮(いちのみや)、国分寺は同市西明寺(さいみょうじ)におかれていた。古くから東大寺など寺社の荘園(しょうえん)が多く、鎌倉時代大内氏千葉氏南北朝時代から室町時代には仁木氏が守護となったが、在地土豪が強く、実権は彼らの形成する連合体としての惣(そう)の手にあった。1581年(天正(てんしょう)9)に織田信長(おだのぶなが)が攻略、1608年(慶長(けいちょう)13)には藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊賀上野城主(津藩)となり、その後幕末まで同氏の一国支配が続いた。1871年(明治4)の廃藩置県により、津県、安濃津(あのつ)県を経て1872年(明治5)に三重県と改称、1876年(明治9)に南部の度会(わたらい)県と合併し、現在の三重県が成立した。◇伊州、賀州ともいう。

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百科事典マイペディア 「伊賀国」の意味・わかりやすい解説

伊賀国【いがのくに】

旧国名。伊州とも。東海道の一国。現在,三重県北西部。《延喜式》に下国,4郡。畿内から東海道への出口として重要視され,古代末期に平氏の勢力下にあり,中世には大内・千葉・仁木(にっき)・畠山・滝川・筒井氏らが領有,近世初期津藩に属して明治に至る。→伊賀惣国一揆
→関連項目近畿地方黒田荘平正盛三重[県]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊賀国」の意味・わかりやすい解説

伊賀国
いがのくに

現在の三重県北西部。東海道の一国。下国。もと伊賀国造が支配。初め伊勢国に含まれていたが,天武9 (680) 年独立して一国となる。壬申の乱 (672) で知られる大友皇子 (→弘文天皇 ) の母伊賀宅子は伊賀国出身の采女であった。国府は伊賀市一之宮,国分寺は伊賀市西明寺。『延喜式』には阿拝 (あべ) 郡,山田 (やまた) 郡,伊賀 (いが) 郡,名張 (なはり) 郡の4郡,『和名抄』には郷 18,田 4051町余が記載されている。東大寺領荘園が多く,黒田,板蠅,玉滝などの杣 (そま) が史上に名高い。鎌倉時代には大内氏,山内氏,千葉氏が守護。南北朝時代から室町時代にかけては千葉氏,仁木氏,高氏,桃井氏の支配を経て,慶長 13 (1608) 年藤堂高虎の領地となり,幕末にいたる。明治4 (1871) 年7月,廃藩置県により津県となり,同年 11月には安濃津県,さらに明治5 (1872) 年,三重県に編入。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「伊賀国」の解説

伊賀国
いがのくに

東海道の国。現在の三重県北西部。「延喜式」の等級は下国。「和名抄」では阿拝(あべ)・山田・伊賀・名張(なばり)の4郡からなる。「扶桑略記」によれば680年(天武9)の成立という。国府・国分寺・国分尼寺は阿拝郡(現,伊賀市)におかれた。一宮は敢国(あえくに)神社(現,伊賀市)。「和名抄」所載田数は4051(異本では4055)町余。「延喜式」では調として綾・絹・糸,庸として白木韓櫃(からびつ),中男作物として紅花・紙・茜(あかね)などの貢進を規定。杣山を領する東大寺などにより大土地所有が進み,平安時代には多くの荘園が形成された。在地領主の藤原実遠(さねとお)は著名。中世には大内・千葉・仁木氏らが守護を勤めたが,一方で悪党が勢力をもち,戦国期以降には伊賀者も活躍。豊臣政権では筒井氏,江戸時代には藤堂氏が大名として支配した。1871年(明治4)廃藩置県により津県となり,安濃津県をへて,72年三重県に属した。

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