大内庄(読み)おおうちのしよう

日本歴史地名大系 「大内庄」の解説

大内庄
おおうちのしよう

小貝こかい川を東限とし、旧五行ごぎよう川を西限とする洪積台地上に位置する庄園。嘉応二年(一一七〇)七月二三日の日付をもつ菖蒲塚しようぶづか古墳経塚出土の経筒銘(新潟県金仙寺蔵)に「下野国大内庄厚木」とみえる。ただし、年号を天正一八年(一五九〇)とする説もある。正治二年(一二〇〇)二月二八日の吉田経房処分状写(御遺言条々)に「大内庄五辻斎院御領」とみえる。鎌倉初期の大内庄の領有関係は、本家が五辻斎院、預所が吉田経房であった。地頭庄官については不詳である。大内庄内にあった高田専修たかだせんじゆ(現芳賀郡二宮町)の二世真仏が下野国司大内国春の子であるという伝承(高田ノ上人代々ノ聞書「真宗史料集成」所収)や、結城系図の宗重の項に「大内弥三郎移于野州大内荘、領天明七ケ村・駒場四ケ村」といった記載は、当庄の地頭庄官を推測する際の手がかりを与えてくれる。


大内庄
おおうちのしよう

古代の大内郷(和名抄)内に成立した荘園で、東寺領については吉囲よしい庄ともいった。現舞鶴市字上安うやすに小字名吉井よしいがあり、当地辺りに比定される。

大内郷は、寿永三年(一一八四)四月一六日、開発領主平辰清から八条院女房弁殿御局に寄進されたが(「平辰清所領寄進状案」東寺百合文書)、このなかの一部吉囲庄本家職がさらに八条院に寄進され、女房弁局はその預所に補任された。次に掲げる文治二年(一一八六)一〇月一六日付八条院内親王庁下文(同文書)がこの間の事情を示している。


大内庄
おおうちのしよう

上野市大内(下之庄)上之庄かみのしよう笠部かさべ付近に比定される。成立時期は不明だが、久安年間(一一四五―五一)藤原忠通から京都最勝金剛さいしようこんごう院に寄進されている(建長二年一一月の「九条道家惣処分状」九条家文書)。のち皇嘉門院に伝えられ、治承四年(一一八〇)五月一一日の皇嘉門院惣処分状(同文書)に「いか おほうちのにし ひんかし」とあり、すでに東西に分れていた。皇嘉門院の遺領は九条兼実に移ったが、「明月記」によれば建仁二年(一二〇二)二月七日、藤原定家は兼実から最勝金剛院領大内東庄は法性ほつしよう(跡地は京都市)法印が知行を止めると聞き、最小の所だが近い場所だからと所望して与えられ、翌年六月一二日にこれを返している。同年頃大内東庄は南都春日社の唯識会の供料として寄進、最勝金剛院領西庄は宜秋門院から九条道家に伝えられた(九条道家惣処分状)


大内庄
おおちのしよう

大内郡全域、現引田ひけた町・白鳥しろとり町・大内町一帯に比定される。庄内に引田・白鳥・与田よだ入野にゆうのやの四郷があり、引田郷は現引田町、白鳥郷は現白鳥町、与田郷・入野郷は現大内町と一部白鳥町を含む地域と考えられる。正応四年(一二九一)三月二八日の亀山上皇書状案(安楽寿院古文書)に「浄金剛院領讃岐国大内庄内(鳥)・引田」とみえ、観応三年(一三五二)六月一九日の足利義詮御教書(讃岐志)には「浄金剛院領讃岐国大内庄白・与田・入野三箇郷事」とみえるから、当庄は「和名抄」で引田・白鳥・入野・与泰よだの四郷からなるとされる大内郡がそのまま庄園化したものである。その後、与田郷について、同郷の地頭職を有した関東御家人小早川本仏(茂平)の正嘉二年(一二五八)七月一九日の譲状案(小早川家文書)に「讃岐国与田郷」とのみみえ、いまだ庄名が付されていないところをみると、当庄の成立は同年以後のことと推定される。


大内庄
おおうちのしよう

円山まるやま川支流の六方ろつぽう川に合流する穴見あなみ川の流域、古代の出石いずし安美あなみ(和名抄)に成立したと推定される庄園で、皇室領の一である法金剛ほうこんごう(現京都市右京区)領。建久九年(一一九八)九月日付の但馬国司庁宣(仁和寺文書)に、新井にい(現日高町)和賀わが(現山東町)とともに御室おむろ(京都仁和寺)御領三ヵ所の一としてみえ、大嘗会用途を免除されている。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文の出石郡内に「大内庄 六拾町弐反百八拾分公文金覚注文定」とみえ、「法金剛院領」「領家真言院僧正」「預所佐渡入道禅海」「下司香住孫太郎入道浄阿 御家人」の注記があり、庄田の内訳は、流失二町一五〇歩、仏神田一町五反、人給三町二反、定田五三町五反三〇歩(以上金覚注文定)である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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