旺文社日本史事典 三訂版 「大坂の役」の解説
大坂の役
おおさかのえき
関ケ原の戦い(1600)後も,豊臣秀頼は大坂城におり,莫大な軍用金をもち,徳川氏に仕えた諸大名中にも心を寄せる者があり,徳川の天下にとって恐るべき存在であった。徳川家康は後顧の憂いを絶つため,これを滅ぼす策を考え,方広 (ほうこう) 寺の鐘銘事件を機として戦端を開いた。1614年10月,淀君 (よどぎみ) をはじめとする大坂方は浪人を集め籠城したが,外濠 (そとぼり) を埋めることを条件に和睦した〈冬の陣〉。しかし内濠まで埋められたので,翌'15年4月再び挙兵,徳川方の猛攻により落城し,淀君・秀頼母子は自殺した〈夏の陣〉。
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