ネーピア(読み)ねーぴあ(英語表記)8th Baron of Napier, William John Napier

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ネーピア」の意味・わかりやすい解説

ネーピア(Laird of Merchiston, John Napier)
ねーぴあ
Laird of Merchiston, John Napier
(1550―1617)

イギリスの数学者。スコットランドのマーチストンの出身といわれるが、詳しいことはわからない。1614年に出版した主著『驚くべき対数の規則の記述』には「著者であり発見者であるジョン・ネーピア・マーチストン男爵」と書いてあるから、貴族であったことがわかる。

 ネーピアの業績は「対数の発見」であり、主著は対数の定義と対数計算法を述べたものである。すなわち、

としたとき、点Pは長さが一定の線分AZを、始点Aから終点Zへ向かって運動し、点Qは限りなく伸びている直線A′Z′を、A′を始点としてZ′のほうへ運動するものとする。P、Qは同じ速さで出発し、Qは速度を変えないで運動し、Pはそれの速さが、その点からZまでの距離に等しいように減じるように運動するものとする。たとえば、PがBにあるときはQはB′にあるとするとき、「の対数である」というのがネーピアの定義である。これを現代流に解釈するために=a=y=xと置くと=a-yであるから、PのBにおける速さはd(a-y)/dtであり、これはyに等しいからd(a-y)/dt=yとなり、Aにおいてはt=0,y=aであるから-logey=t-logeaとなる。QがA′Z′に沿って等速運動をしているからdx/dtはAにおける速度に等しい。ゆえにdx/dt=a、したがってx=atとなる。ゆえにx=a(logea-logey)を得る。xはネーピアの対数であるから、これをNap・logyと書くと、Nap・logy=a(logea-logey)を得るが、これがネーピアの対数の現代的表現である。対数の発見は、天文学数値計算を飛躍的に簡易化し、ラプラスは「対数の発見は天文学者寿命を2倍にした」といったという。ネーピアは1617年4月4日にエジンバラの近くの村で死去した。

小堀 憲]


ネーピア(8th Baron of Napier, William John Napier)
ねーぴあ
8th Baron of Napier, William John Napier
(1786―1834)

イギリスの海軍大佐、外交官、8代ネーピア男爵。1833年12月、翌年からの東インド会社貿易独占権廃止に伴い、外相パーマストンから初代中国貿易首席監督官に任命された。34年7月マカオに到着した彼は、中国側の慣例に反し入港許可を受けずに広州に入り、さらに「公行」(ギルドを構成する中国の特許商人)を介しての請願による交渉方式をとらずに、両広総督に直接着任の通知をし、また、役人との会見の座席を対等に並びかえさせることなどをしたため、総督から、貿易停止の威嚇措置をもってマカオへの退却を迫られた。ネーピアは武力示威でこれに応じたが、事態が解決せぬまま9月に入り、激しいマラリア発作に襲われ、9月末マカオに退き、半月後同地で没した。

[石井摩耶子]


ネーピア(ニュージーランド)
ねーぴあ
Napier

ニュージーランド北島東部、ホーク湾に臨む港湾都市。人口5万3661(2001)。付近は牧羊、果樹栽培が盛んで、羊毛、食肉、果実、缶詰などがアフリリAfuriri港から輸出される。ニュージーランドのリビエラといわれ、冬の保養地としても知られる。

[浅黄谷剛寛]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ネーピア」の意味・わかりやすい解説

ネーピア(男)
ネーピア[だん]
Napier, Robert Napier, 1st Baron

[生]1810.12.6. セイロンコロンボ
[没]1890.1.14. イギリス,ロンドン
インドで活躍したイギリス陸軍元帥。セイロン(→スリランカ)駐留砲兵士官チャールズ・フレデリック・ネーピアの子で,イギリス東インド会社のアディスコーム軍学校に学び,1831年から東ジャムナ水路の灌漑事業で働いた。1845年に第1次シク戦争(→シク戦争)が勃発するとサトレジ軍の工兵隊指揮官として従軍した。1848~49年の第2次シク戦争ではムルタン包囲戦を指揮し,グジャラートの戦いでパンジャブ軍の工兵隊を率いた。1849~51年パンジャブ行政委員会で土木技師として道路,水路,橋,建物,国境警備関連の公共事業に従事。1857年のインド大反乱(セポイの反乱)の際はラクノー救援隊の主任技官として,インド人傭兵セポイに対する積極的な防御作戦を指揮した。のちに最終作戦の指揮官を任ぜられ,バス二等勲爵士を授与された。1860年の中国遠征で指揮下の師団がハイ(海)河北方の陣地を陥落させて北京へ進軍し,朝を降伏させた(→天津条約)。1863年11~12月,インド総督を代行。1867年中将に昇進し,エチオピア遠征隊長を務め 1868年皇帝テオドロス2世を倒した。1868年に初代マグダラのネーピア男爵に叙された。1870~76年インド駐留軍総司令官。1876~82年ジブラルタル総督。1883年にイギリス陸軍元帥に就任した。

ネーピア
Napier, John

[生]1550. エディンバラ近郊マーキストン
[没]1617.4.4. エディンバラ近郊マーキストン
イギリスの数学者。 13歳でセントアンドルーズ大学へ入ったが,在学期間は短かったらしく,当時の習慣に従って外国旅行に出たようである。 1571年頃故郷に帰り,マーキストンかガートネスに住んだ。彼の最も重要な業績は自然対数 (ネーピアの対数) の発見である。この発見によって特に天文学の計算が容易になり,大きな影響を与えた。彼は対数の研究に 94年頃から取組み,1614年に公表した。ほぼ同じ頃スイスの数学者 J.ビュルギも対数を発見したが,発表した年が 20年であったため,発見の名誉はネーピアに与えられている。ほかに,計算尺の原型を発明したり,球面三角法にも業績を残している。熱烈な新教徒であった彼は,旧教に対抗してスコットランド教会史に残る書物 (『聖ヨハネの黙示録全体に関する明白な発見』) を著わしている (1594) 。主著に『驚くべき対数法則の記述』 (1614) ,『驚くべき対数法則の構造』 (19) などがある。

ネーピア
Napier, Sir Charles

[生]1786.3.6. スターリング,フォールカーク近郊
[没]1860.11.6. ハンプシャー,カサリントン近郊
イギリスの海軍軍人。 1799年海軍に入る。ナポレオン戦争中,地中海 (1811) ,アメリカ沿岸 (14) に転戦。ポルトガルの内乱に,ペドロ1世の率いる立憲君主派に招かれて艦隊司令官となり (33) ,簒奪者ドン・ミゲルの艦隊を破ったが,イギリス海軍から除名された。 1836年復帰し,シリア遠征 (40~44) の艦隊司令官となった。クリミア戦争にはバルト海艦隊司令官となり,ロシアの海軍基地クロンシタット攻撃を拒絶して問題となった。 55~60年自由党下院議員。 58年海軍大将。

ネーピア
Napier

ニュージーランド,ノース島中央東岸にある港湾都市。ヘースティングズと並びホーク湾地方の代表的都市。市街地はネーピアヒルとして知られる小さな岬の上に位置し,気候は温暖で保養地となっている。周辺では牧羊が盛んで,羊毛の代表的集散地。そのほか冷凍肉や酪農製品を産し,これらはおもにアメリカ合衆国に輸出される。良港をもち,大型船舶の接岸が可能。近くに製材,パルプ工場があり,漁業も行われる。人口5万 2700 (1990推計) 。

ネーピア
Napier, Sir William Francis Patrick

[生]1785.12.17. キルデア,セルブリッジ
[没]1860.2.10. サリー,クラパムパーク
イギリスの軍人,歴史家。 1800年陸軍に入隊し,08年スペインでの戦役に参加。そのときの経験をもとに資料を収集し,『イベリア半島戦争史』 History of the War in the Peninsula (6巻,1828~40) を執筆。 59年陸軍大将。

ネーピア(男)
ネーピア[だん]
Napier, William John, 8th Baron of

[生]1786
[没]1834. マカオ
イギリスの海軍軍人。 1803年海軍に入隊し,09年大尉,12年中佐,14年大佐に昇進,『エルン』号の艦長となる。 22年牧羊経営に関する論文を発表し,23年8代男爵として父の跡を継ぐ。 33年中国貿易の首席監督官に任命された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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