ネーピア(読み)ねーぴあ(英語表記)Laird of Merchiston, John Napier

デジタル大辞泉 「ネーピア」の意味・読み・例文・類語

ネーピア(Napier)

ニュージーランド北島東部の都市。ホーク湾に面する。ヘースティングズがある後背地は牧羊と果樹栽培が盛んで、木材・羊毛・食品・パルプ積出港がある。同国有数のワイン産地としても知られる。1931年の地震で大きな被害を受けたのち、当時流行のアールデコ様式で多くの建物が再建された。

ネーピア(John Napier)

[1550~1617]英国の数学者対数を創始し、近代的計算機の原型となる計算機も発明した。著「驚くべき対数規則の記述」など。→ネーピア数

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精選版 日本国語大辞典 「ネーピア」の意味・読み・例文・類語

ネーピア

  1. [ 一 ] ( William John Napier ウィリアム=ジョン━ ) イギリス海軍軍人外交官。初代中国貿易首席監督官としてイギリスの対中国貿易の保護促進につとめた。(一七八六━一八三四
  2. [ 二 ] ( John Napier ジョン━ ) イギリスの数学者。一六一四年対数を発明した。また、対数を応用した一種の計算器を発明、近代計算器の原型となった。(一五五〇‐一六一七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ネーピア」の意味・わかりやすい解説

ネーピア(Laird of Merchiston, John Napier)
ねーぴあ
Laird of Merchiston, John Napier
(1550―1617)

イギリスの数学者。スコットランドのマーチストンの出身といわれるが、詳しいことはわからない。1614年に出版した主著『驚くべき対数の規則の記述』には「著者であり発見者であるジョン・ネーピア・マーチストン男爵」と書いてあるから、貴族であったことがわかる。

 ネーピアの業績は「対数の発見」であり、主著は対数の定義と対数計算法を述べたものである。すなわち、

としたとき、点Pは長さが一定の線分AZを、始点Aから終点Zへ向かって運動し、点Qは限りなく伸びている直線A′Z′を、A′を始点としてZ′のほうへ運動するものとする。P、Qは同じ速さで出発し、Qは速度を変えないで運動し、Pはそれの速さが、その点からZまでの距離に等しいように減じるように運動するものとする。たとえば、PがBにあるときはQはB′にあるとするとき、「の対数である」というのがネーピアの定義である。これを現代流に解釈するために=a=y=xと置くと=a-yであるから、PのBにおける速さはd(a-y)/dtであり、これはyに等しいからd(a-y)/dt=yとなり、Aにおいてはt=0,y=aであるから-logey=t-logeaとなる。QがA′Z′に沿って等速運動をしているからdx/dtはAにおける速度に等しい。ゆえにdx/dt=a、したがってx=atとなる。ゆえにx=a(logea-logey)を得る。xはネーピアの対数であるから、これをNap・logyと書くと、Nap・logy=a(logea-logey)を得るが、これがネーピアの対数の現代的表現である。対数の発見は、天文学の数値計算を飛躍的に簡易化し、ラプラスは「対数の発見は天文学者の寿命を2倍にした」といったという。ネーピアは1617年4月4日にエジンバラの近くの村で死去した。

[小堀 憲]


ネーピア(8th Baron of Napier, William John Napier)
ねーぴあ
8th Baron of Napier, William John Napier
(1786―1834)

イギリスの海軍大佐、外交官、8代ネーピア男爵。1833年12月、翌年からの東インド会社貿易独占権廃止に伴い、外相パーマストンから初代中国貿易首席監督官に任命された。34年7月マカオに到着した彼は、中国側の慣例に反し入港許可を受けずに広州に入り、さらに「公行」(ギルドを構成する中国の特許商人)を介しての請願による交渉方式をとらずに、両広総督に直接着任の通知をし、また、役人との会見の座席を対等に並びかえさせることなどをしたため、総督から、貿易停止の威嚇措置をもってマカオへの退却を迫られた。ネーピアは武力示威でこれに応じたが、事態が解決せぬまま9月に入り、激しいマラリア発作に襲われ、9月末マカオに退き、半月後同地で没した。

[石井摩耶子]


ネーピア(ニュージーランド)
ねーぴあ
Napier

ニュージーランド北島東部、ホーク湾に臨む港湾都市。人口5万3661(2001)。付近は牧羊、果樹栽培が盛んで、羊毛、食肉、果実、缶詰などがアフリリAfuriri港から輸出される。ニュージーランドのリビエラといわれ、冬の保養地としても知られる。

[浅黄谷剛寛]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ネーピア」の意味・わかりやすい解説

ネーピア(男)
ネーピア[だん]
Napier, Robert Napier, 1st Baron

[生]1810.12.6. セイロンコロンボ
[没]1890.1.14. イギリス,ロンドン
インドで活躍したイギリス陸軍元帥。セイロン(→スリランカ)駐留砲兵士官チャールズ・フレデリック・ネーピアの子で,イギリス東インド会社のアディスコーム軍学校に学び,1831年から東ジャムナ水路の灌漑事業で働いた。1845年に第1次シク戦争(→シク戦争)が勃発するとサトレジ軍の工兵隊指揮官として従軍した。1848~49年の第2次シク戦争ではムルタン包囲戦を指揮し,グジャラートの戦いでパンジャブ軍の工兵隊を率いた。1849~51年パンジャブ行政委員会で土木技師として道路,水路,橋,建物,国境警備関連の公共事業に従事。1857年のインド大反乱セポイの反乱)の際はラクノー救援隊の主任技官として,インド人傭兵セポイに対する積極的な防御作戦を指揮した。のちに最終作戦の指揮官を任ぜられ,バス二等勲爵士を授与された。1860年の中国遠征で指揮下の師団がハイ(海)河北方の陣地を陥落させて北京へ進軍し,朝を降伏させた(→天津条約)。1863年11~12月,インド総督を代行。1867年中将に昇進し,エチオピア遠征隊長を務め 1868年皇帝テオドロス2世を倒した。1868年に初代マグダラのネーピア男爵に叙された。1870~76年インド駐留軍総司令官。1876~82年ジブラルタル総督。1883年にイギリス陸軍元帥に就任した。

ネーピア
Napier, John

[生]1550. エディンバラ近郊マーキストン
[没]1617.4.4. エディンバラ近郊マーキストン
イギリスの数学者。 13歳でセントアンドルーズ大学へ入ったが,在学期間は短かったらしく,当時の習慣に従って外国旅行に出たようである。 1571年頃故郷に帰り,マーキストンかガートネスに住んだ。彼の最も重要な業績は自然対数 (ネーピアの対数) の発見である。この発見によって特に天文学の計算が容易になり,大きな影響を与えた。彼は対数の研究に 94年頃から取組み,1614年に公表した。ほぼ同じ頃スイスの数学者 J.ビュルギも対数を発見したが,発表した年が 20年であったため,発見の名誉はネーピアに与えられている。ほかに,計算尺の原型を発明したり,球面三角法にも業績を残している。熱烈な新教徒であった彼は,旧教に対抗してスコットランド教会史に残る書物 (『聖ヨハネの黙示録全体に関する明白な発見』) を著わしている (1594) 。主著に『驚くべき対数法則の記述』 (1614) ,『驚くべき対数法則の構造』 (19) などがある。

ネーピア
Napier, Sir Charles

[生]1786.3.6. スターリング,フォールカーク近郊
[没]1860.11.6. ハンプシャー,カサリントン近郊
イギリスの海軍軍人。 1799年海軍に入る。ナポレオン戦争中,地中海 (1811) ,アメリカ沿岸 (14) に転戦。ポルトガルの内乱に,ペドロ1世の率いる立憲君主派に招かれて艦隊司令官となり (33) ,簒奪者ドン・ミゲルの艦隊を破ったが,イギリス海軍から除名された。 1836年復帰し,シリア遠征 (40~44) の艦隊司令官となった。クリミア戦争にはバルト海艦隊司令官となり,ロシアの海軍基地クロンシタット攻撃を拒絶して問題となった。 55~60年自由党下院議員。 58年海軍大将。

ネーピア
Napier

ニュージーランド,ノース島中央東岸にある港湾都市。ヘースティングズと並びホーク湾地方の代表的都市。市街地はネーピアヒルとして知られる小さな岬の上に位置し,気候は温暖で保養地となっている。周辺では牧羊が盛んで,羊毛の代表的集散地。そのほか冷凍肉や酪農製品を産し,これらはおもにアメリカ合衆国に輸出される。良港をもち,大型船舶の接岸が可能。近くに製材,パルプ工場があり,漁業も行われる。人口5万 2700 (1990推計) 。

ネーピア
Napier, Sir William Francis Patrick

[生]1785.12.17. キルデア,セルブリッジ
[没]1860.2.10. サリー,クラパムパーク
イギリスの軍人,歴史家。 1800年陸軍に入隊し,08年スペインでの戦役に参加。そのときの経験をもとに資料を収集し,『イベリア半島戦争史』 History of the War in the Peninsula (6巻,1828~40) を執筆。 59年陸軍大将。

ネーピア(男)
ネーピア[だん]
Napier, William John, 8th Baron of

[生]1786
[没]1834. マカオ
イギリスの海軍軍人。 1803年海軍に入隊し,09年大尉,12年中佐,14年大佐に昇進,『エルン』号の艦長となる。 22年牧羊経営に関する論文を発表し,23年8代男爵として父の跡を継ぐ。 33年中国貿易の首席監督官に任命された。

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改訂新版 世界大百科事典 「ネーピア」の意味・わかりやすい解説

ネーピア
John Napier
生没年:1550-1617

イギリスの数学者。対数の発見者として知られる。スコットランドの貴族で,政治や宗教問題に関与したが余暇に数学や自然科学を研究した。1614年に《驚くべき対数の法則の記述》を発表,0°より90°まで1分おきの角の正弦の対数の表を添え,対数が天文計算などに有用なことを示した。それに感激し示唆を受けたブリッグズHenry Briggs(1556?-1631)は常用対数表(1624)を作った。ネーピアには計算器具,兵器などの考案もある。
執筆者:


ネーピア
Napier

ニュージーランド北島の東岸,ホーク湾に面した都市。人口11万8404(2006)。ホーク・ベイ地方の中心都市で,近くのヘースティングズとともに連合都市として扱われることがある。羊毛,水産加工(缶詰),ブドウ酒などの工業が立地し,羊毛の集散地として知られる。近くに日本企業との合弁による製材・パルプ工場がある。港から羊毛など農産物を輸出する。1856年開かれたが,1931年に大地震で破壊され再建された。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ネーピア」の意味・わかりやすい解説

ネーピア

英国の数学者。スコットランドの貴族で熱烈な新教徒。対数を考案し,0°〜90°の1分ごとの正弦の対数表をそえて1614年発表。のちブリッグスと協力して10を底とする常用対数表を作製。計算機械についても研究。
→関連項目ブリッグス

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世界大百科事典(旧版)内のネーピアの言及

【計算機械】より

…この方式はのちにアバクスやそろばんに発展し,現代にまで達している。イギリスが世界の海を支配し始めた17世紀初め,天文学や三角関数に基づいた航海術における計算需要を背景に,スコットランドの貴族J.ネーピアは対数計算を創始し,続いて1617年ころ〈ネーピアの計算棒〉と呼ばれる計算器具を発明した。これは,九九の表を分解記入した棒を並べて,乗除算を行うものであって,実用的に広く使われたという。…

【数学】より

…リジューの司教となったニコル・オレームNicole Oresmeが温度の変化をグラフに表したり,分数指数を導入したりしたのは,当時としては先端的な発想であった。対数が発見されたのは16世紀の中葉になってからイギリスのJ.ネーピアやブリッグスHenry Briggs(1556‐1631)によるもので,ブリッグスは後述するケプラーの計算にも協力した。 13世紀のイタリアには,ダンテらによってルネサンスの機運が興り,美術上のルネサンスは15~16世紀に最盛期を迎える。…

【対数】より

…ビュルギJobst Bürgi(1552‐1632)は1603‐11年の間に対数表を作り,20年にそれを刊行した。それとは無関係に,J.ネーピアも1617年に対数表を公表し,これが対数の初めといわれる。 ふつうの記数法は十進法によるので,実用上の計算には10を底とする対数を用いるのが便利である。…

※「ネーピア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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