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鐘銘事件 しょうめいじけん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

鐘銘事件
しょうめいじけん

慶長 19 (1614) 年7月 26日徳川家康豊臣氏滅亡をはかり挑発した事件。豊臣秀頼が家康のすすめで方広寺大仏を再建した際,同じく鋳造した鐘の銘文中「国家安康」の字句が,家康の名を分割し身を切断することを意味し,徳川氏を呪詛し,「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると非難し,大仏開眼を延期させ,豊臣方を憤激させた。豊臣秀頼は重臣片桐且元をつかわして誤解をとかせようとしたが,最初から計画的であった家康にいれられず,豊臣方も硬化し,且元も大坂を退城し,慶長 19年 10月の大坂冬の陣を引起すことになった。 (→大坂の陣 )  

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百科事典マイペディアの解説

鐘銘事件【しょうめいじけん】

豊臣秀頼は1612年京都方広寺の大仏を復興し,1614年には梵鐘を鋳造。その鐘銘に〈国家安康〉の文字があったことから,徳川家康は家康を二つに割いた〈関東不吉の文辞〉があると難癖をつけ,豊臣方を大坂の陣へと追い込んだ。

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世界大百科事典 第2版の解説

しょうめいじけん【鐘銘事件】

1614年(慶長19)再建された京都方広寺大仏殿の釣鐘の銘に徳川家康が難くせをつけ,豊臣秀頼を開戦に追いこんだといわれる事件。秀吉が創建し,1596年の大地震で崩壊した方広寺の再建は徳川・豊臣両氏の共同事業であったが,鐘銘に〈国家安康〉の文字があったのを〈家康〉を胴切りにするものと難くせをつけた家康は,これを機会に秀頼の徳川氏への臣従化を迫った。秀頼はこれを拒否し,大坂の陣が起き,豊臣氏は滅んだ。【高木 昭作】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

鐘銘事件
しょうめいじけん

大坂冬の陣の直接原因となった京都・方広寺大仏殿の鐘銘をめぐる事件。豊臣(とよとみ)秀吉がつくった大仏は1596年(慶長1)の地震で崩壊し、秀吉の生前、再興されなかった。豊臣家の豊かな財力を恐れた徳川家康は、これを消耗させるため秀頼(ひでより)母子にその再興を勧め、工事が始まった。やがて1614年(慶長19)大仏殿が完成し、その開眼供養(かいげんくよう)の日が迫ったとき、家康は突然その鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字のあることをとがめて供養の中止を命じた。大坂側では家康の怒りを解くことに努めたが、これを機会に豊臣氏の討滅を考えていた家康は、秀頼の大坂退去など無理難題を並べて大坂側を窮地に追い詰めた。そのため大坂方はついに意を決して兵をあげた。[岡本良一]
『岡本良一著『大坂冬の陣・夏の陣』(1972・創元社)』

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世界大百科事典内の鐘銘事件の言及

【文英清韓】より

…1600年(慶長5)東福寺,次いで南禅寺の住持となる。14年,片桐且元の依頼でつくった方広寺大仏の鐘銘が徳川家康の怒りに触れ,鐘銘事件を引き起こした。豊臣氏滅亡後に捕らえられて京都,次いで駿府に数年のあいだ拘禁されていたが,20年(元和6)9月には後水尾天皇に東坡詩集を進講している。…

※「鐘銘事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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