コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

大坂の陣 おおさかのじん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大坂の陣
おおさかのじん

慶長 19 (1614) 年に行われた冬の陣と翌年に行われた夏の陣の両方を総称していう。関ヶ原戦い以後,将軍宣下を受けて天下を握った徳川家康にとって豊臣氏の存在は非常に不安なものであった。秀吉の子秀頼 (→豊臣秀頼 ) に対する圧迫,大坂方の財力を神社仏閣の建設によって削減させるといった政策のなかで,たまたま方広寺鐘銘事件が起り,それを機として大坂方を挑発したのが冬の陣。大坂城の守りが固く容易に破ることができないので,家康は講和を結んで,その間に堀などを埋めた。そこで再び戦いが起り,防塁と堀を失った豊臣方は敗れ,元和1 (15) 年5月8日大坂城落城,秀頼は母淀君とともに自殺した。これを夏の陣という。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

百科事典マイペディアの解説

大坂の陣【おおさかのじん】

徳川家康豊臣氏を滅亡させた戦い。1614年(慶長19年)の冬の陣と翌1615年(慶長20年)の夏の陣に分かれる。1614年家康は方広寺大仏の鐘銘に難癖をつけ,豊臣秀頼淀君(浅井氏)の江戸移住,あるいは秀頼の国替えを求めたが,豊臣方は拒否した。
→関連項目石川丈山板倉勝重大阪[市]小幡景憲坂崎直盛真田幸村鐘銘事件末吉孫左衛門長宗我部氏天王寺平野郷武功雑記方広寺松倉重政柳生宗矩

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

おおさかのじん【大坂の陣】

江戸幕府が豊臣氏を大坂城に滅ぼした戦い。1614年(慶長19)の冬の陣と,翌年(元和1)の夏の陣とに分かれる。
[原因]
 1598年,豊臣秀吉は当時6歳の秀頼を五大老の筆頭徳川家康以下の有力諸大名に託して死んだが,その2年後の関ヶ原の戦で天下の実権を掌握した家康は,1603年には征夷大将軍となり,全国の大名を軍事的に指揮する伝統的な権限手中にした。この権限にもとづいて家康は諸大名に築城などの御手伝普請を賦課するとともに,京都の二条城,江戸,駿府などへの参勤と証人(人質)の呈出とを強制した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

おおさかのじん【大坂の陣】

1614年(慶長19)冬、および翌年夏、徳川氏が豊臣氏を滅ぼした二度の戦い。関ヶ原の戦いののち、徳川家康は方広寺鐘銘の問題を口実に大坂城を攻めたが要害堅固で落とせず、外堀を埋めることで和議が成立した(大坂冬の陣)。その後、家康は内堀も埋め秀頼の転封を強要したため翌年戦闘が再開され、豊臣軍は破れ、秀頼・淀君以下自刃、豊臣氏は滅亡した(大坂夏の陣)。

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大坂の陣
おおさかのじん

1614年(慶長19)の冬および翌1615年の夏、徳川氏が豊臣(とよとみ)氏を攻め滅ぼした両度の戦いをいう。関ヶ原の戦いの勝利によって、徳川家康は事実上、天下の覇権を握ったが、それから3年後、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられたことにより名実ともに天下の覇者となった。しかし大坂には、関ヶ原の戦い以後、摂河泉で65万石を領すにすぎなくなったとはいえ、ひたすら故太閤(たいこう)時代の栄光を夢みる豊臣秀頼(ひでより)母子が、名城大坂城に拠(よ)って隠然たる勢力を保持していた。家康は関ヶ原以来、徳川家に臣従した旧豊臣恩顧の大名らを、恩威ならび行う巧みな操縦策によって懐柔し、彼らの豊臣離れを図るとともに、秀吉の遺言を守って、孫娘の千姫(せんひめ)を秀頼に嫁せしめるなどして豊臣家に恩を売った。1605年(慶長10)家康は老齢を理由にわずか2年で将軍職を退き、その跡を嫡子秀忠(ひでただ)に譲った。千姫の輿入(こしい)れで家康の善意を信じ、政権の返還を期待していた豊臣側は、その期待を裏切られて大いに憤激したが、家康はこれによって将軍職は徳川家の世襲であることを内外に示したわけである。このような硬軟取り混ぜた家康の出方に、豊臣側は警戒の念を深めながらも、その真意のほどを測りかねていた。
 家康はそのような豊臣家に対して、故太閤の菩提(ぼだい)を弔うためとの理由で、全国各地の著名な諸社寺の復興、修復を次々に行わせ、その財力を消耗させることに努めた。なかでも京都大仏殿の再建は、さしもの豊臣家の府庫を乏しくさせるほどの大工事であった。しかもこの大仏殿がようやく完成し開眼供養(かいげんくよう)が間近に迫った段階で、家康はその鐘銘(しょうめい)に理不尽な言いがかりをつけて豊臣家を圧迫、窮地に追い詰めた。豊臣側では事態を穏便に処理せんとした片桐且元(かたぎりかつもと)が駿府(すんぷ)に赴き、弁解これ努めたが、家康に翻弄(ほんろう)されてむなしく帰坂した。しかし城内の過激派は、このような且元を関東に通ずるものとして大坂城から追放するとともに兵をあげた。[岡本良一]

冬の陣

大坂側は豊臣恩顧の大名たちに来援を求めたが、大名たちは徳川氏の勢威を恐れ、ただの1人もこれに応ずる者はいなかった。大坂方が頼むのは真田幸村(さなだゆきむら)、長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)、明石全登(あかしぜんと)、毛利勝永(もうりかつなが)、後藤基次(ごとうもとつぐ)らをはじめとし、全国各地から馳(は)せ参じた10万余の牢人(ろうにん)と、難攻不落の名城の堅い守りのみであった。大坂方の挙兵を待ち望んでいた家康は、ほとんど全国の大名を動員して総勢およそ30万、神武以来といわれた大軍勢を指揮して大坂城を包囲した。鴫野(しぎの)、今福、伯労ヶ淵(ばくろうがふち)、真田の出丸(でまる)などでの小競(こぜ)り合いや、寄せ手のすさまじい鉄砲攻撃などがあったが、大坂城の守りは堅く、厳寒のもとに戦局はほとんど進展しなかった。長期戦を不利とみた家康は、引き続き苛烈(かれつ)な攻撃を繰り返して、秀頼の母淀殿(よどどの)らの戦争恐怖心をあおり、城中に和議締結の気運を高めさせた。家康のねらいは和議により大坂城の堀を埋め、この城の防御力を減殺することにあった。幾度かの折衝のすえ1614年12月、ついに和議は成立した。和議では、寄せ手は総構(そうがまえ)の堀をつぶすだけとなっていたのであるが、家康はその約を破り、大坂方の抗議を押し切って、総構ばかりでなく、内堀を除く二の丸、三の丸の堀まですべて埋めてしまった。家康に近侍し黒衣の宰相といわれた金地院崇伝(こんちいんすうでん)は、このような大坂城を「大坂の城堀埋まり、本丸ばかりにて浅間しくなり、見苦しき体にて御座候」といっている。大坂城はもはや難攻不落の名城ではなくなったのである。[岡本良一]

夏の陣

約束外の堀まで埋められ、改めて家康不信の念を強くした大坂方は、再戦必至とみて、武器、弾薬、兵糧(ひょうろう)の集積など、あわてて戦争準備を始めた。家康にとってこれは再戦のよい口実になった。家康は秀頼の大和(やまと)(奈良県)あるいは伊勢(いせ)(三重県)への国替(くにがえ)や牢人の追放など、大坂側がとうてい受諾できない条件を示して、もし承知せねば恭順の意ありとは認めがたいと難題を吹きかけた。大坂方はまたもやこの家康の挑発にのって兵をあげた。待ち設けていた家康は1615年4月18日、秀忠は同21日ともに京都に到着して軍議をこらした。そして5月5日、家康、秀忠に率いられる本隊は京都を発して京街道を進み、奈良方面に集結していた別働隊は大和路を進んで、ともに大坂城を目ざした。これに対し、濠をなくした大坂方は全員出撃に決し、この日、後藤基次、真田幸村らは大和方面軍を迎え討つべく国分(こくぶ)、道明寺(どうみょうじ)へ、木村重成(きむらしげなり)、長宗我部盛親らは京街道から東高野街道(ひがしこうやかいどう)を進む家康、秀忠の本陣に決戦を挑むべく八尾(やお)、若江(わかえ)へ進出、翌6日の払暁(ふつぎょう)からこの両方面で激戦が行われた。しかし戦いは大坂方に利あらず、後藤、木村の両将は討ち死に。翌7日、最後の決戦が城南の天王寺(てんのうじ)、岡山の両正面を中心に行われたが、ここでも大坂方は善戦のすえことごとく敗北。城も火を発してこの日のうちに落ちた。最後まで秀頼とともにあった大野治長(おおのはるなが)は、秀頼母子の助命を嘆願させるため千姫を城外に脱出させたが、それも空しく、秀頼らは翌8日、焼け残りの櫓(やぐら)の中で自殺し、豊臣氏は滅亡した。[岡本良一]
『岡本良一著『大坂冬の陣・夏の陣』(1972・創元社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の大坂の陣の言及

【大坂軍記物】より

…難波戦記物ともいう。近世に流布した《大坂軍記》という俗書に伝えられている大坂冬の陣,夏の陣(大坂の陣)に題材を得た作品群。ただし江戸期にはそれを直接劇化することは許されていなかったので,その多くは,真田幸村,木村重成,後藤又兵衛らの活躍を,鎌倉時代の義経奥州落ちや近江源氏の世界の人物たちに仮託,脚色したものとなっている。…

※「大坂の陣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大坂の陣の関連キーワード永瀬七郎右衛門(初代)大坂RONIN 5小田切嘉兵衛長宗我部盛親三好伊三入道天野半之助由利鎌之助駒木根利政塙団右衛門木下利房諏訪忠恒細川忠利建部政長江戸幕府小浜嘉隆大野治氏久世広当吉田茂武山岡景宗真田信政

大坂の陣の関連情報