徳川家康の江戸幕府が、豊臣家を滅ぼそうと大坂城を攻めた大坂冬の陣(1614年)と大坂夏の陣(15年)の総称。豊臣方の真田信繁(幸村)が、家康の本陣を脅かす戦いぶりを見せたが夏の陣で戦死。豊臣秀吉が築いた難攻不落の大坂城は焼失し、秀吉の子・秀頼は母の淀殿とともに自害した。
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1614年(慶長19)の冬および翌1615年の夏、徳川氏が豊臣(とよとみ)氏を攻め滅ぼした両度の戦いをいう。関ヶ原の戦いの勝利によって、徳川家康は事実上、天下の覇権を握ったが、それから3年後、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任ぜられたことにより名実ともに天下の覇者となった。しかし大坂には、関ヶ原の戦い以後、摂河泉で65万石を領すにすぎなくなったとはいえ、ひたすら故太閤(たいこう)時代の栄光を夢みる豊臣秀頼(ひでより)母子が、名城大坂城に拠(よ)って隠然たる勢力を保持していた。家康は関ヶ原以来、徳川家に臣従した旧豊臣恩顧の大名らを、恩威ならび行う巧みな操縦策によって懐柔し、彼らの豊臣離れを図るとともに、秀吉の遺言を守って、孫娘の千姫(せんひめ)を秀頼に嫁せしめるなどして豊臣家に恩を売った。1605年(慶長10)家康は老齢を理由にわずか2年で将軍職を退き、その跡を嫡子秀忠(ひでただ)に譲った。千姫の輿入(こしい)れで家康の善意を信じ、政権の返還を期待していた豊臣側は、その期待を裏切られて大いに憤激したが、家康はこれによって将軍職は徳川家の世襲であることを内外に示したわけである。このような硬軟取り混ぜた家康の出方に、豊臣側は警戒の念を深めながらも、その真意のほどを測りかねていた。
家康はそのような豊臣家に対して、故太閤の菩提(ぼだい)を弔うためとの理由で、全国各地の著名な諸社寺の復興、修復を次々に行わせ、その財力を消耗させることに努めた。なかでも京都大仏殿の再建は、さしもの豊臣家の府庫を乏しくさせるほどの大工事であった。しかもこの大仏殿がようやく完成し開眼供養(かいげんくよう)が間近に迫った段階で、家康はその鐘銘(しょうめい)に理不尽な言いがかりをつけて豊臣家を圧迫、窮地に追い詰めた。豊臣側では事態を穏便に処理せんとした片桐且元(かたぎりかつもと)が駿府(すんぷ)に赴き、弁解これ努めたが、家康に翻弄(ほんろう)されてむなしく帰坂した。しかし城内の過激派は、このような且元を関東に通ずるものとして大坂城から追放するとともに兵をあげた。
[岡本良一]
大坂側は豊臣恩顧の大名たちに来援を求めたが、大名たちは徳川氏の勢威を恐れ、ただの1人もこれに応ずる者はいなかった。大坂方が頼むのは真田幸村(さなだゆきむら)、長宗我部盛親(ちょうそがべもりちか)、明石全登(あかしぜんと)、毛利勝永(もうりかつなが)、後藤基次(ごとうもとつぐ)らをはじめとし、全国各地から馳(は)せ参じた10万余の牢人(ろうにん)と、難攻不落の名城の堅い守りのみであった。大坂方の挙兵を待ち望んでいた家康は、ほとんど全国の大名を動員して総勢およそ30万、神武以来といわれた大軍勢を指揮して大坂城を包囲した。鴫野(しぎの)、今福、伯労ヶ淵(ばくろうがふち)、真田の出丸(でまる)などでの小競(こぜ)り合いや、寄せ手のすさまじい鉄砲攻撃などがあったが、大坂城の守りは堅く、厳寒のもとに戦局はほとんど進展しなかった。長期戦を不利とみた家康は、引き続き苛烈(かれつ)な攻撃を繰り返して、秀頼の母淀殿(よどどの)らの戦争恐怖心をあおり、城中に和議締結の気運を高めさせた。家康のねらいは和議により大坂城の堀を埋め、この城の防御力を減殺することにあった。幾度かの折衝のすえ1614年12月、ついに和議は成立した。和議では、寄せ手は総構(そうがまえ)の堀をつぶすだけとなっていたのであるが、家康はその約を破り、大坂方の抗議を押し切って、総構ばかりでなく、内堀を除く二の丸、三の丸の堀まですべて埋めてしまった。家康に近侍し黒衣の宰相といわれた金地院崇伝(こんちいんすうでん)は、このような大坂城を「大坂の城堀埋まり、本丸ばかりにて浅間しくなり、見苦しき体にて御座候」といっている。大坂城はもはや難攻不落の名城ではなくなったのである。
[岡本良一]
約束外の堀まで埋められ、改めて家康不信の念を強くした大坂方は、再戦必至とみて、武器、弾薬、兵糧(ひょうろう)の集積など、あわてて戦争準備を始めた。家康にとってこれは再戦のよい口実になった。家康は秀頼の大和(やまと)(奈良県)あるいは伊勢(いせ)(三重県)への国替(くにがえ)や牢人の追放など、大坂側がとうてい受諾できない条件を示して、もし承知せねば恭順の意ありとは認めがたいと難題を吹きかけた。大坂方はまたもやこの家康の挑発にのって兵をあげた。待ち設けていた家康は1615年4月18日、秀忠は同21日ともに京都に到着して軍議をこらした。そして5月5日、家康、秀忠に率いられる本隊は京都を発して京街道を進み、奈良方面に集結していた別働隊は大和路を進んで、ともに大坂城を目ざした。これに対し、濠をなくした大坂方は全員出撃に決し、この日、後藤基次、真田幸村らは大和方面軍を迎え討つべく国分(こくぶ)、道明寺(どうみょうじ)へ、木村重成(きむらしげなり)、長宗我部盛親らは京街道から東高野街道(ひがしこうやかいどう)を進む家康、秀忠の本陣に決戦を挑むべく八尾(やお)、若江(わかえ)へ進出、翌6日の払暁(ふつぎょう)からこの両方面で激戦が行われた。しかし戦いは大坂方に利あらず、後藤、木村の両将は討ち死に。翌7日、最後の決戦が城南の天王寺(てんのうじ)、岡山の両正面を中心に行われたが、ここでも大坂方は善戦のすえことごとく敗北。城も火を発してこの日のうちに落ちた。最後まで秀頼とともにあった大野治長(おおのはるなが)は、秀頼母子の助命を嘆願させるため千姫を城外に脱出させたが、それも空しく、秀頼らは翌8日、焼け残りの櫓(やぐら)の中で自殺し、豊臣氏は滅亡した。
[岡本良一]
『岡本良一著『大坂冬の陣・夏の陣』(1972・創元社)』
江戸幕府が豊臣氏を大坂城に滅ぼした戦い。1614年(慶長19)の冬の陣と,翌年(元和1)の夏の陣とに分かれる。
1598年,豊臣秀吉は当時6歳の秀頼を五大老の筆頭徳川家康以下の有力諸大名に託して死んだが,その2年後の関ヶ原の戦で天下の実権を掌握した家康は,1603年には征夷大将軍となり,全国の大名を軍事的に指揮する伝統的な権限を手中にした。この権限にもとづいて家康は諸大名に築城などの御手伝普請を賦課するとともに,京都の二条城,江戸,駿府などへの参勤と証人(人質)の呈出とを強制した。秀吉の場合,後北条氏や朝鮮国王に対する参洛の要求を拒否されたことが,後北条氏征伐や朝鮮出兵の大義名分の一つとなったことからもわかるように,諸大名が家康や秀忠のもとに手勢をひきいて参勤することは,その軍事指揮権に服属し,幕府を中心とした政治的秩序に参加する意志を形に表す意味をもった。秀頼に対しても家康は,秀吉との約束を守って1603年に千姫(天樹院)を秀頼のもとへ入輿させる一方,05年の将軍交代を機に二条城において新将軍秀忠に礼をするよう要求した。しかし1603年内大臣,05年右大臣と官位の上でも家康・秀忠と雁行し,堅城大坂城で諸公家や秀吉恩顧の諸大名の年始の礼を居ながらにして受けていた(これは1614年まで続いた)秀頼は,生母浅井氏(淀君)の意志でこれを拒絶したので上方には開戦のうわさが流れ,大坂では家財を避難させる庶民も出る状態であった。このときは妥協した家康は,11年,後水尾天皇の即位を機として秀頼の近臣にも禁裏造営の役を賦課すると同時に,秀頼を大坂から上洛させ二条城で礼をさせることに成功した。そして3年後には,方広寺大仏の鐘銘に難癖をつけ(鐘銘事件),和解の条件として秀頼か浅井氏の江戸移住,秀頼の大坂からの国替のうちの一つを受け入れるよう大坂方に迫った。大坂方はこれを拒否し,片桐且元など和解に努力した勢力を城から追い出し,多数の牢人を召し抱えて軍事的対決の構えを示した。
家康は10月諸大名に動員令を発して駿府を出発して上洛し,11月15日二条城を出て大坂に向かった。麾下(きか)の軍勢は20万,これに対して大坂方は10万といわれる。しかし,堅固な城を攻めあぐみ,12月21日に和平を成立させ,外堀の一部を形だけ埋めるという約束を無視して内堀までも埋めてしまった。さらに年を越えて家康は,牢人の放出,秀頼の大和または伊勢への国替の二者択一を迫って,大坂方を再戦に追い込んだ。4月29日に戦闘が開始された夏の陣では,堀を失った大坂方は城を出て戦う方針を採ったが,利あらず,5月7日,大坂城は陥落し秀頼母子は自殺した。以後,徳川氏の政権は250年余にわたって安定し,大名の間の戦争が絶えた。このことを後年〈元和偃武(げんなえんぶ)〉という。
執筆者:高木 昭作
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徳川氏が豊臣氏を滅ぼした戦。1614年(慶長19)冬と15年(元和元)夏の2度にわたる。関ケ原の戦ののち,徳川家康にとって豊臣氏排除は幕府権力の安定をはかるうえで不可避の課題であった。家康は豊臣氏の財力消耗をはかり,14年には方広寺鐘銘事件をおこして豊臣氏を挑発,冬の陣が勃発した。10月,徳川軍は防備を整えた大坂城を包囲したが,12月20日に講和が成立。徳川方は講和条件を無視して内堀の埋立てなどを強行。さらに秀頼への転封命令などで豊臣氏を圧迫し,15年4月に再び戦闘状態に入った。豊臣方は野戦を展開するがあいついで敗北,5月7日に大坂城二の丸が陥落,本丸が炎上した。翌8日,秀頼と淀殿が自刃し,豊臣氏は滅亡した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…難波戦記物ともいう。近世に流布した《大坂軍記》という俗書に伝えられている大坂冬の陣,夏の陣(大坂の陣)に題材を得た作品群。ただし江戸期にはそれを直接劇化することは許されていなかったので,その多くは,真田幸村,木村重成,後藤又兵衛らの活躍を,鎌倉時代の義経奥州落ちや近江源氏の世界の人物たちに仮託,脚色したものとなっている。…
※「大坂の陣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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