大坪慶秀(おおつぼすけひで)
おおつぼすけひで
(1324?―1407?)
室町時代の馬術家、大坪流の流祖。慶秀の伝は異説が多く、つまびらかではないが、『武芸小伝』によれば、慶秀は一名広秀、上総(かずさ)(千葉県)の人で、初め孫三郎といい、乗馭(じょうぎょ)の術に優れ、上京して将軍足利義満(あしかがよしみつ)・義政(よしまさ)に仕え、しばしばその妙技を披露し、左京亮(さきょうのすけ)、のち式部大輔(だいぶ)に進んだ。また鞍鐙(くらあぶみ)の製作に巧みで、晩年薙髪(ちはつ)して道禅(どうぜん)と号し、84歳の夏、5月18日に没したという。
出生地については信州村上、常州鹿島、相州鎌倉、三州岡崎などの諸説があり、死没年月についても、1407年(応永14)10月、1457年(康正3)3月、1492年(明応1)、文明(ぶんめい)年間(1469~87)などまちまちで、確説はない。また慶秀と同時代、鞍鐙の名工に大坪左京亮有成入道道禅という人物があり、その伝記が混入しているとする説や、慶秀の実在を疑問視し、第2代村上加賀守永幸(かがのかみながゆき)を実の開祖とする説もある。
[渡邉一郎]
『『日本馬術史 第2巻』(1940・日本乗馬協会)』
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大坪慶秀
没年:応永14(1407)
生年:正中1(1324)
室町時代の馬術家。大坪流馬術の開祖。上総国(千葉県)生まれ。孫三郎,のち入道して道禅と称す。常陸国(茨城県)に赴き鹿島大神に祈った際,その霊夢によって製作した鞍を夢想鞍と名付けたとされる。はじめ小笠原流の小笠原政長に学び,やがて独自の鞍鐙(くらとあぶみ)の製法を編み出し,大坪流を創始した。その後,政長の推挙もあり,室町幕府将軍足利義満の馬術師範となった。その功績は総合武術であった小笠原流から馬術を独立させ,実子村上永幸をはじめ多くの馬術専門家を養成したことであろう。<参考文献>日夏繁高『本朝武芸小伝』(新編武術叢書),石岡久夫『日本の古武術』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
大坪慶秀 おおつぼ-よしひで
1324-1407 南北朝-室町時代の馬術家。
正中(しょうちゅう)元年生まれ。馬術の大坪流の祖。足利義満,義持につかえた。鞍づくりにすぐれ,大坪鞍とよばれる軍陣鞍を考案した。鹿島(かしま)大神から製法を暗示されたといわれ,夢想鞍とよばれた。応永14年10月17日死去。84歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。名は広秀,有成とも。通称は孫三郎。号は道禅。
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世界大百科事典(旧版)内の大坪慶秀の言及
【大坪流】より
…和式馬術の代表的流派。流祖は大坪式部大輔慶秀(すけひで)(広秀とも記し,道禅と号す。出自,生没年確説なし)。14世紀末~15世紀中ごろ,足利義満,義持に仕え,[小笠原流]を学んで名手となり大坪流を開いた。また鞍(くら),あぶみの製作でも有名。小笠原流が〈弓馬故実〉を中心としたのに対し,大坪流は馬術を専門として門戸を開放したので弟子が多く,技術論とともに精神論も確立。後代までいわゆる和式馬術流派中で最大の地位を占めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」