大屋裏住(読み)おおやのうらずみ

精選版 日本国語大辞典 「大屋裏住」の意味・読み・例文・類語

おおや‐の‐うらずみ【大屋裏住】

  1. 江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。野呂松(のろま)人形名手ともいわれる。享保一九~文化七年(一七三四‐一八一〇

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改訂新版 世界大百科事典 「大屋裏住」の意味・わかりやすい解説

大屋裏住 (おおやのうらずみ)
生没年:1734-1810(享保19-文化7)

江戸中期の狂歌師。姓は久須美,通称は白子屋孫左衛門,別号は萩の屋,初号は大奈権厚紀(だいなごんあつき)。江戸の人。家業は初め更紗屋,のち大家。寛延年間(1748-51)から狂歌を作り,一時中断したが明和年間(1764-72)に元木網(もとのもくあみ)らと再開した。本町連の元老天明狂歌の先駆的存在。編著は《狂歌秋の野良》。〈折りとるは憎さも憎し心根のかはゆくもある花の盗人〉(《狂歌觽(けい)》)。
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朝日日本歴史人物事典 「大屋裏住」の解説

大屋裏住

没年:文化7.5.11(1810.6.12)
生年:享保19(1734)
江戸時代の狂歌作者。姓は久須美氏,通称は白子屋孫左衛門,別号を窓雪院。初めは更紗屋であったが,明和年間(1764~72)より江戸日本橋金吹町に住んで貸家業を営んだ。狂名はその家業による。寛延年間(1748~51)より卜柳の門に入り,初めの名を大奈権厚紀といった。その後二十余年間,狂歌を離れていたが,明和年中,再び活動を始め,四方赤良(大田南畝)に従って大屋裏住と号した。天明(1781~89)ごろから手柄岡持(朋誠堂喜三二),酒上不埒(恋川春町)らの属した本町連を主宰した。寛政9(1797)年剃髪して,萩の屋の号を用いた。江戸狂歌壇の長老のひとりであり,おかしみのある歌を得意とした。また野呂松人形の使い手としても知られている。

(園田豊)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大屋裏住」の解説

大屋裏住 おおやの-うらずみ

1734-1810 江戸時代中期-後期の狂歌師。
享保(きょうほう)19年生まれ。江戸で更紗(さらさ)屋をへて貸家を業とする。天明のころから本町連を主宰,四方赤良(よもの-あから)(大田南畝)らとともに狂歌界を指導した。野呂松(のろま)人形の名手としても知られた。文化7年5月11日死去。77歳。江戸出身。姓は久須美。通称は白子屋孫左衛門。別号に大奈権厚紀(だいなごん-あつき),萩の屋,窓雪院。編著に「狂歌秋の野良」。

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