改訂新版 世界大百科事典 「天明狂歌」の意味・わかりやすい解説
天明狂歌 (てんめいきょうか)
江戸後期天明年間(1781-89)を中心とする狂歌。狂歌史上の黄金時代にあたる。江戸狂歌は早く半井卜養(なからいぼくよう),未得(みとく)の存在はあったものの単発的で,狂歌の中心は貞徳,生白庵行風(せいはくあんこうふう),豊蔵坊信海,永田貞柳,栗柯亭木端(りつかていぼくたん),混沌軒国丸(こんとんけんくにまる),一本亭芙蓉花(いつぽんていふようか)と上方にあった。ところが明和年間(1764-72)江戸山の手の一角に新鮮な運動が起こった。牛込加賀町の内山賀邸は近隣の子弟に国学を教えていたが,堅苦しいいっぽうの先生ではなく,みずからも狂歌を好み門弟にもすすめた。いち早く狂歌に手を染めたのは唐衣橘洲(からごろもきつしゆう)で,1767年(明和4)同門の一人19歳の四方赤良(よものあから)(大田南畝)が狂詩文集《寝惚(ねぼけ)先生文集》を出したのも刺激になったか,1769年橘洲宅で初めての狂歌会を開き,翌年賀邸,萩原宗固を判者として《明和十五番狂歌合》があった。このころの顔ぶれは,賀邸,宗固,橘洲,赤良,飛塵馬蹄,朱楽菅江(あけらかんこう)(以上武士),大根太木(おおねのふとき),平秩東作(へずつとうさく),元木網(もとのもくあみ),智恵内子(ちえのないし),浜辺黒人(はまべのくろひと),大屋裏住(おおやのうらずみ),蛙面坊懸水(あめんぼうけんすい)(以上町人),坡柳(職業不明)など,いずれも趣味教養豊かな武士や町人であった。こうした少数の同好者グループに始まった狂歌は,機知滑稽を喜ぶ江戸市民の好みに投じて急速に市中に広まった。その中心は,和歌・漢学の素養の上に格調正しく温雅な作風の橘洲と,鋭い機知と気魄を重んずる赤良,それに菅江,木網である。とくに赤良は〈高き名のひびきは四方にわき出て赤良赤良と子供まで知る〉(蓼太)と詠まれるほどであった。狂歌は時の興によって詠むものであって,ことごとしく集など編むべきでないという意識もあり,このグループから狂歌集はなかなか出版されなかったが,1783年(天明3)橘洲の《狂歌若葉集》が刊行されると,同年一挙に10余点の狂歌書が刊行された。その一つ《狂歌知足振(しつたふり)》は江戸の狂歌グループとして小石川連,吉原連,芝連,四方連,朱楽連,堺町連,本町連を挙げ,登録作者は310人に及んでいる。かかる爆発的大流行は同時に質的低下の第一歩であり,高度の趣味教養を背景にした遊びから大衆化,職業化への変化であった。1787年に始まる寛政の改革は狂歌界にも大きな影響を及ぼした。赤良,手柄岡持(朋誠堂喜三二),酒上不埒(恋川春町)ら武士作家が退陣または活動をひかえ,狂歌界の主導権は町人へと移行し,それとともに狂歌の職業化の傾向が強まる。天明狂歌の幕は閉じられ,中心は宿屋飯盛(石川雅望),鹿都部真顔(しかつべのまがお),頭光(つぶりひかる),馬場金埒の狂歌四天王に移っていく。
→狂歌
執筆者:森川 昭
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