明治中期から昭和の初めまで天皇の最高の相談役として政界の最上層にあって,重要事件に際して政局のまとめ役をつとめた特権政治家の一団。当初は伊藤博文,黒田清隆,山県有朋,松方正義,井上馨,西郷従道,大山巌で,いずれもいわゆる〈維新の功臣〉であったが,明治末から大正初めにかけて桂太郎,西園寺公望が加わった。公卿出身の西園寺のほかはいずれも薩長の出身で,内閣総理大臣等の要職を歴任した長老政治家である。憲法その他の法令に基づく職名ではなく,明治天皇から〈元勲優遇〉の詔勅をうけたか,またはこれに準ずる者で,天皇が代わると新たに〈卿ノ匡輔(きようほ)ニ須(ま)ツ〉との詔勅が出された。元老の存在が明確になったのは,松方正義内閣が閣内不統一に悩んだあと1892年に伊藤が〈元勲総出〉の第2次内閣を組織したころからで,このときから内閣総辞職の際後継内閣の首班について天皇の諮問に答えることが,元老の最も重要な職務となった。元老は宣戦,講和をはじめ国家の進路に関する重要問題を審議する御前会議や閣議に参加し,またその権勢を背景に内閣の施政に干渉したり,内閣と貴族院,陸海軍等との調停にあたった。明治憲法体制のもとでは内閣,各国務大臣,枢密院,陸海軍,帝国議会が天皇にそれぞれ直属したうえ,帝国議会の権能は弱体で,人民を代表する衆議院は同格の貴族院によって牽制されるよう仕組まれており,しかも天皇がみずからこれらの機関をまとめてゆくことは期待されなかった。そこで天皇の側近にあって文武官僚など体制側の勢力をまとめ,政党をはじめ民主的な勢力を抑えて絶対主義的な支配を維持してゆくため,元老の存在が必要とされたのである。
元老は当初は明治政府内部の薩長閥等の対立を調整し,一致して民党にあたることを目ざしたが,1900年の立憲政友会結成前後から政党が体制内で有力な存在となると,これを牽制して彼らの意図する体制と政策の枠内におしこめる役割をになった。当初,内閣は隈板(大隈・板垣)内閣を唯一の例外として元老の1人が組閣にあたり,1901年の桂太郎内閣以降は次代の人物が組閣したが,元老はその黒幕として活動し,枢密院議長等の要職も占めた。伊藤の死後は,山県が元老の筆頭として陸軍閥と官僚閥を背後に権勢をふるった。大正政変は元老の権威を揺るがしたが,第1次大戦がおこるとふたたびその策動は活発化し,寺内非立憲(ビリケン)内閣を誕生させた。しかし米騒動は元老の統合力の限界を示し,山県もやむなく政友会総裁の原敬を首相に推したが,原内閣も軍部や枢密院の抵抗に苦しめられ,山県の力を利用せねばならなかった。
1920年代中ごろまでに元老は相ついで世を去り,西園寺が最後の元老となった。彼は護憲三派内閣以降〈憲政の常道〉として政党内閣が慣行化し,天皇制が立憲的に安定することに期待をかけた。後継首班の推薦もまず内大臣が諮問をうけ,その進言で元老の意見を求める方式となった。だが元老の勢力下からはみだした枢密院,陸海軍等の特権勢力はひとり歩きをはじめ,他方,政党は政権獲得のためには特権勢力とも結託し,自律的な政権交代のルールを作りだせなかった。そのため政党政治の時期にも元老は重要な役割を果たしたが,満州事変で軍部が台頭すると,困難な条件のもとでの政局とりまとめに当たらねばならなかった。元老は内大臣,枢密院議長,首相礼遇者らの重臣と相談して後継首班を推薦する方式をとり,いわゆる挙国一致内閣で事態の収拾をはかったが,二・二六事件後は軍の独走をとめがたくなった。1940年には内大臣がその責任で重臣とはかり,元老の意見をきいて天皇に首班を推薦することになったが,つづく第2次近衛文麿内閣の成立にあたっては,西園寺は意見を述べることを断った。ついで元老に知らせることなく日独伊三国同盟が結ばれ,まもなく西園寺は死去し,元老の存在も終わった。政局とりまとめの役割は,3代目の宮廷グループ(牧野伸顕,木戸幸一らの内大臣)の手にうけつがれた。
執筆者:今井 清一
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第二次世界大戦前に国家の重要政策の決定や首相選任にあたった特定の政治家の総称。明治維新後、維新の元勲(げんくん)として大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)ら薩長(さっちょう)両藩出身の指導的政治家が中心となって権力を掌握していたが、1889年(明治22)黒田清隆(きよたか)が首相を辞任し、伊藤博文(ひろぶみ)が枢密院議長を辞任するに際して、明治天皇から「元勲優遇」の詔勅を受けた。これが元勲としての身分を特定し、以後、98年に松方正義(まつかたまさよし)が首相辞任に際して同様な詔勅を受けるが、この間に井上馨(かおる)、西郷従道(さいごうつぐみち)、大山巌(いわお)らも同様な待遇を受けた。彼らは後継首相の選任に際して天皇の諮問にあずかり、重要な外交問題や内政上の難局打開の際にも天皇の諮問を受けた。なかでも、伊藤、山県有朋(やまがたありとも)の発言力は大きく、松方、井上は財界への影響力を行使して財政・経済面で手腕を振るった。1901年(明治34)桂(かつら)太郎が首相に就任して以後は、元老自ら政権を担当することなく、日英同盟締結や日露戦争時にはその指導力を発揮し、日露戦争後の桂園(けいえん)時代にも、政権の外にあって影響力を行使した。09年伊藤の死後は山県の発言力が絶大となり、明治末年に桂太郎が、大正初めに西園寺公望(さいおんじきんもち)が新たに元老に加わった。
しかし大正期には元老の政治的比重はしだいに低下し、1922年(大正11)山県の死後は、西園寺が事実上最後の元老として後継首相の選任にあたった。西園寺は理想的な政党政治の確立を目ざし、24年から31年(昭和6)の政党政治の実現に寄与したが、政党間の泥仕合的な対立や軍部の独走などに苦悩した。西園寺は31年以降、軍部を先頭とするファッショ化の動きのなかで、英米との協調路線を維持し、軍部を抑制できる人材を首相候補に推挙するべく努めた。しかし37年(昭和12)近衛文麿(このえふみまろ)の推薦を最後に、老齢を理由として首相の推薦を辞退し、以後は内大臣を中心とする重臣会議に諮問することになった。40年西園寺の死とともに元老は名実ともに消滅した。
[宇野俊一]
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明治憲法のもとで天皇にかわり首班選考や内外重要政策に関して助言・決定にあたった長老政治家。はじめは伊藤博文・井上馨(かおる)・山県有朋(やまがたありとも)・大山巌(いわお)・黒田清隆・西郷従道(つぐみち)・松方正義の7人,のちに桂太郎・西園寺公望(きんもち)・大隈重信が加わった。内閣制度発足後,明治国家建設に大功のあった薩長の実力者が首相を選出し,首班選考規定のない明治憲法下でもこの手順が慣行となった。当初元勲・元老・黒幕ともよばれたが,桂園内閣期には元老のよび名が一般化した。1924年(大正13)西園寺1人となり,西園寺の活動停止後は内大臣,ついで重臣会議が首班選考にあたった。天皇から「元老優遇」の詔や御沙汰書をうけた者もいるが,基本的には他の元老の承認が第1条件であった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…統治機構がその構造上黒幕的存在を恒常的に必要とする場合もある。明治憲法下で機構上の最高統治者であった天皇が実質的な政治決定を行う存在ではなかったために,各統治機関の間に対立が生じ,政治的意思決定が困難になる場合があったが,元老と称される人々がその個人的権勢に基づいて政治に非公式に参画し,内閣首班の決定をはじめ政策遂行に大きな影響を及ぼし,その結果として統治機関の統一的運営が可能になるという面があった。第1次松方正義内閣の閣員が弱体なため維新の元勲たちが重要国策の決定にあずかったことが元老の活動の発端とされているが,当時彼らの会合が〈黒幕会議〉と呼ばれたのはその役割を象徴的に語るものといえよう。…
… 初代内大臣にはそれまで太政大臣だった三条実美が任命され,三条の死後は侍従長徳大寺実則が内大臣を兼ねた。だがまもなく元老がつくられ,政変のさいの後継首相の決定は天皇が元老の意見を聞いて行ったから,内大臣はとくに政治的役割を果たさなかった。 しかし,大正天皇となって天皇と元老の信任関係が変化すると,内大臣の政治的役割にも関心が払われるようになった。…
※「元老」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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