デジタル大辞泉 「人形」の意味・読み・例文・類語
にん‐ぎょう〔‐ギヤウ〕【人形】
2 自分の意志では行動できず、他人のなすがままになっている人のたとえ。
3 男物の長着で、
4 人の形を絵にかいたもの。ひとがた。
「見るにまばゆくなって、さながら―とは思はれず」〈浮・一代女・四〉
[類語](1)縫いぐるみ・マネキン・こけし
人形は,人間の生活する地域には必ずといってよいほど存在し,その表現法や材料に相違があって巧拙さまざまではあるが,人間の姿・形を作り出そうとしなかった民族はいない。また人形が作られる目的も今日のようにもっぱら児童の愛玩用や玩具として作られたのではなく,むしろその大多数は呪術宗教的な目的や習俗に関連して作られたもので,人形の起源もこれに由来すると考えられている。その呪術宗教的な目的も,形代(かたしろ)としての人形,逃げた霊魂を捕らえる捕霊のための人形,悪霊を防いだり豊作や幸運を招くための人形,神体や呪力をもつ人形,のろいや出産,葬式などの儀礼や祭礼に用いられる人形など一様ではない。
日本の現行の民俗のなかにも,信仰的な意味をもった人形が多く残っている。こうした人形は,(1)災厄や病気を託して送り流す形式の人形,(2)呪詛用の人形,(3)神霊の形代,依代(よりしろ)としての人形に大きく分けることができる。(1)は年中行事に際して作られ,村境に送り出されたり水に流される人形送りや流し雛などの類である。これらは,罪や穢などを人形に負わせたり,災厄や病気をもたらすと考えられる悪神をかたどった人形を送り出すもので,神送りの一種である。二と八日,三月節供,五月節供,七夕,八朔(はつさく),九月節供などの年中行事のほか,虫送りや疫病送りのような臨時のものもある。また,撫物(なでもの)といって人形(ひとがた)にかたどった紙の形代で身体をなでて穢をはらう形式の行事も,神仏に参る際や夏越(なごし)の祓,12月の大祓などに行われている。(1)が感染呪術であるのに対し,(2)はむしろ類感呪術の一種で,のろう相手をかたどったわら人形などに五寸釘をさす風習(丑の時参り)のほか,子どもの虫封じに小さな人形の腹部に針をさす物を使う場合もある。古くは平城宮址からも,のろいに使われたと考えられる木製の人形が出土している。(3)には,村境や門口に立てて魔よけとする大型の草人形,わら人形のほか,祭礼の山車(だし)や屋台に神霊の依代として作られる迎え人形,飾人形,さらに厠神(かわやがみ)や船霊(ふなだま)の神体となっている人形もある。この種の人形のなかには,東北地方でいたこという巫女が遊ばせるオシラサマのように,信仰から操り人形や遊び人形へと芸能化・遊戯化を暗示しているものもある。
いずれにせよ,民俗信仰における人形は災厄や穢を背負わされた形代として,饗応されたあと流し去ることによって,心身ともに浄化する呪物となっているものが多い。穢が強くあらわれる出産や葬送儀礼にも,人形が用いられる。たとえば,天児(あまがつ),這子(ほうこ)(はいはい人形),産屋道具の犬箱などは,穢を吸収して浄化させる呪物として魔よけともされるし,また1年に2度葬式を出した家では棺の中に人形を入れて,これ以上葬式がでないようにというまじないにする。さらに建築儀礼の際などに人形を納める風習もあり,やはりこれもスケープゴートとして宇宙のはじまりをもたらす呪物といえよう。
執筆者:飯島 吉晴
旧石器時代の〈ビーナス〉や日本の縄文時代の土偶,古墳時代の人物埴輪(はにわ),中国の俑(よう)も一種の人形といえるが,古代エジプトの王族の墳墓からは,前2000年ころの人形が発見されている。それは薄い板で作られ,衣装はなくて,胴の部分には絵具で幾何学的な模様を施し,頭には毛髪の代りに木製の数珠のごときものを数条たらしてある。また兵士,従者などにかたどった木彫人形もあり,これらは家屋や船などの模型とともに埋葬されていたものである。人形の長さは6~20cm余。また古代エジプトの第19王朝(前1306-前1186)の幼児の墓に,木彫彩色の長さ12cmの人形が埋葬されていた。手は木釘で胴にとりつけて動くようになっている。髪はカットし,目を黒くくまどり,白の肌着をつけるなど,当時の装いをしている。これによると,少女のもてあそびの人形が,このころすでにあったのである。ついで古代ギリシアの人形にも手と足を別に作り,それらを胴にとりつけ,手足の動くようになったものがあり,木製と粘土製とがあった。長さ16cm余。胴・手足の均斉も人間と同じに整っているので,衣装を着せたときの姿態は美しいものであったろう。また古代ギリシアの土人形にタナグラより出土したもの(タナグラ人形)があり,なかにはギリシア彫刻にみられるような写実にすぐれた人形がある。土人形にはまた稚拙素朴なこしらえの騎馬人形や,ガチョウに乗った子どもの人形もあり,これらは男の子どものおもちゃであろう。なお,古代ギリシアでは人形操りも演じられていた。織物は腐食しやすいので,それを材料にした人形は,紀元前後のローマやエジプトの遺物にようやくみられるが,早くから織物でも製作されていたのに違いない。
中世ヨーロッパにおいては戦争のために都市が破壊されたためでもあろうが,人形の残るものはきわめて少ない。12世紀のドイツには土人形があり,体の均斉よりも顔のこしらえに関心を払っている。華美な装いの布帛(ふはく)人形では,フランス人形が名高いが,これはパリのデザイナーが新スタイルの衣装を案出すると,それを広めるのに人形を利用したからであり,それは14世紀のころからという。布帛人形の遺品には,16世紀のフランスやスペインの人形で,高さ60cmの貴婦人を作ったものがある。衣装ぎれも人形用の別織で,顔だちも類型的でなく,モデルがあるらしく,また姿態の均斉も整っている。西欧の人形史からは,〈人形の家〉を逸するわけにはいかない。〈人形の家〉は貴族が自分の邸宅と,そこに住む家族の者の模型を製作させたものである。いくつかの部屋があり,部屋には壁掛けもテーブルも食器もあり,あらゆる調度が実際のとおりに作られ,置かれている。それぞれの部屋には家族の者が休んだり,働いたりしている。このような精細をきわめた模型を作り,鑑賞するときは前面の壁をはずすのである。〈人形の家〉は16世紀にドイツの,ついでフランス,オランダ,イギリス,イタリアの貴族の間に流行した。〈人形の家〉の人形は大小さまざまで,小さい人形は10cm余。毛髪の一房,飾りぎれの一片もゆるがせにせず,貴族の姿態を実際のとおりに模して,ぜいたくをきわめている。さて,人形の頭の製作については,17世紀にドイツではセッコウ,粘土焼,蠟や張子細工などで製作され,19世紀には磁器製が現れた。人形の後世に残されるものは,とかく高級品であるが,一般の家庭で飾る人形も,おもちゃの人形も種々な品が現れていたのはいうまでもない。子どもの喜ぶ人形で,幼児の姿をよく製作して広く人気を博したのは,19世紀の初めのイギリスのベビー人形が初めであろう。諸国の人形にはその国の風俗から民族固有の顔だち,独特の表情まで写されている。また特産の材料を用いている。ロシアや北欧の人形は毛皮の帽子や上着を暖かそうに着けている。スイスでは木彫彩色を得意とするし,チェコではガラス製のすぐれた人形が製作されている。ロシアでは,湯を入れた容器がさめないようにおおいをかけるが,それを人形とそのスカートで作っているものもある。
アジアの人形について略説すると,中国の創始した人形に張子があり,ここから東西へ伝えられた。信仰や演劇に用いられた人形ではマリオネット(糸操り),ギニョール(指人形)が古くからヨーロッパにもアジアにもある。インドネシアの影絵芝居(ワヤン)に使用される人形も逸するわけにはいかない。現在,木彫彩色の人形の多く製作されているのはアジアであり,その人形にも,原始的な彫りを施したトコベイ島の人形から,ミャンマー,タイあたりの小ぎれいに作られた現代の生活風俗の人形まで千姿万態の作品がみられる。インドネシアではまた豊作をもたらしてくれる神の姿を,ヤシの葉などを編んで作っている。ヨーロッパの例では,ハンガリーの子どもはケシの花などで人形を作って遊ぶが,このように世界の人形の歴史は,現代の世界の人形のなかにもさまざまにみてとられる。
日本の古い人形について知ることのできるのは,平安時代の書物によってであるが,平安時代の人形には,(1)いわゆる形代に使ったものに草人形(くさひとがた)がある。疫病が流行すると,人々は大きな草人形を作って村境にたてたりした。この人形は穢や災いの精霊であって,その持ってきた穢などを再び持ち帰ってくれるものと信じられていた。農民の生活には,このほかに稲虫退治の虫送りの人形や病気平癒などのまじないのため臨時に作る人形があった。(2)操り人形 平安時代に傀儡子(かいらいし)/(くぐつ)(傀儡(くぐつ))は手操りの人形を舞わして歩いた。この人形は傀儡子の仕える神の形代であったといわれる。後世この手操りの人形は浄瑠璃と提携して人形芝居にまで発展する。(3)標山(しめのやま) 近世,神社の祭礼に山車を引き回すが,これは平安時代の標山に由来する。標山は大嘗祭(だいじようさい)のときに大嘗宮の前にすえるもので,山の形を作り,松などをたて,さらに仙人などの人形の作り物で飾る。これらは依代にしたものである。依代は天上の神にお降りを願うとき,降りてもらう場所にたてる目じるしである。後世の山車は,神のお供をするもののように考えられて,その意味が変わった。(4)人形(ひとがた) 人形は人間の形体で,紙などでこしらえ,それで身体をなでて,穢や災いを人形に移して,川などに流した。身体をなでるので,撫物ともいった。また平安時代の《延喜式》に,大祓に用いたと記されている木髪や金属髪の人形は,近年,平城宮址から出土しており,これらがすでに奈良時代からあったことが裏づけられた。なかには呪詛に用いたと思われる,木釘を打ちこんだものもある。(5)幼児の魔よけ 幼児のまくらもとに天児,這子や犬の形の箱(後世には犬張子となる)を置いて,幼児を襲う災いなどを吸い取らせることもおこなわれた。天児は木,竹などでT字形に作ったものに,幼児の衣装を着せる。(6)女子の人形 平安時代の女の子のままごと遊びに雛が用いられた。この雛の形は明らかでないが,少年少女の姿をこしらえたもので,雛遊びには,この男女の人形を対にして遊んだ。(7)男子の人形 《栄華物語》などに,物見車や駒競(こまくらべ)に模したおもちゃのことがみえている。当時の貴族の子どもは精巧な人形のおもちゃを持っていたようである。(8)説法の人形 仏法を説き聞かせるのに,経典の物語の場面を人形で作って信者に見せた。後世の人形の見世物の源流も,すでに信仰と結びついて平安時代末期からあったといえる。
人形は江戸時代に至っておおいに発達した。商工業の発展,都市生活の繁栄を背景として,人形製作も進み,商品としての人形製作も隆盛になり,また年中行事にしきりに人形が登場するようになり,人形に関する著作や記録も多くなる。江戸時代における人形を概観すると次のようである。
(1)信仰の人形 近世には,作物の害虫よけ,子宝の授かり,疱瘡(ほうそう)よけなどのまじないのほか,都会地では出世開運,商売繁盛の祈願なども人形に託すことが流行した。全国各地で,それらの人形を粘土で製作し,彩色意匠を施して商品にこしらえ,社寺参りのみやげ物として売り出すことも始められた。こうした人形の今日に残っているものが,いわゆる郷土玩具である。
(2)年中行事の人形 (a)とくに3月3日と5月5日の節供には形代でする祓のほか,いろいろな行事もみられたが,それらが習合されて,3月の雛祭や,5月の幟(のぼり)や武者人形飾が広くおこなわれた。(b)神社の祭りに山車を引き回すことも都市では一つの流行になった。なかでも京都の祇園会の山と鉾(ほこ),大坂の天満祭のお迎え人形,博多(福岡)の祇園祭の山笠,江戸の山王と神田明神の山車などは名高い。(c)盂蘭盆の行事にも人形が出され,京都御所では和漢の物語に取題して,人形の作り物をこしらえて飾った。かかる作り物は地方にもみられた。
(3)興行用人形 江戸時代に興った芝居や見世物には,(a)今日,文楽にみられるような操り芝居が,江戸時代の中ごろ完成した。諸地方にはこれを簡略化したような人形芝居が幕末近くに始められ,東京都八王子の車人形は,その一つである。(b)右手に人形をはめ,左手で人形の裾を扱って踊らせる指遣(ゆびつかい)人形も始まった。指遣人形は東日本にみられ,千葉県下の帛紗(ふくさ)人形,埼玉県下の手人形,岩手県下の水押人形などは,ながく残った。(c)糸操り人形は,人形に多くの糸をつけ,人形遣がその糸を操って,語り物にあわせて人形に芝居をさせる。これには芝居小屋で演ずる大がかりな操りのほかに,簡略な糸仕掛けの人形を宴席の余興に操ってみせる座敷芸もあった。のち明治の中ごろ,ヨーロッパの糸操りが伝わり,東京の浅草で興行した。ヨーロッパ式の指人形と糸操りは,昭和に入ってから学校演劇にもとり上げられている。(d)からくり人形は,人形の体内に仕掛けをして,人形がひとりでに動くかのように見せるもので,それには,ぜんまい応用や,水銀,砂,水の圧力を利用するもの,また陰に人が隠れ,糸を引いて動かすものなどがある。江戸時代ではこれらが見世物として興行価値をもった。(e)かご細工,貝細工などで人形や鳥獣を製作し,それらで和漢の物語の場面を装置した細工の見世物も,江戸時代後半に興行された。菊人形もその一つである。(f)この見世物の人形に,幕末のころ,本物の人間そっくりにこしらえた人形が現れ,〈生(いき)人形〉と呼ばれて評判をとった。この生人形系統の人形は,のちに西洋系統のマネキンの進出するにいたるまで,デパートのマネキンに用いられた。
(4)家庭子ども用人形 子どもの遊ぶ人形には,(a)姉様がある。女の子たちは,カモジグサや紙で人形の髪を結い,紙などで衣装を作ったりして遊んだ。このような手製の人形はおそらく古代からのもので,紙の貴重だった時代では草の葉の衣装にしたであろう。幕末には姉様人形の商品も現れ,姉様用の首人形も売られた。(b)祭の市や寺社参拝のみやげに売られていた人形に土人形(娘,天神,福助,布袋(ほてい),相撲など)や張子のだるま,お面などがあった。木製の人形もあった。これらの人形で,ただの玩具と称して売られたのは少なく,病気よけになるなど,なにかの縁起物にされていた。家庭における人形に裸人形があり,これは木彫や練物や張子細工に胡粉(ごふん)を塗り仕上げたもので,手足を動かせるようになっている。これは市松人形ともいった。これを買ってきて家庭で腹掛けや衣装を縫って着せた。この系統の人形は今日,〈やまと人形〉とも呼ばれて流行している。(c)人形の玩具には,前掲の指遣人形や糸操りの玩具化したもの,人形に竹の柄をつけて糸で操る管(くだ)人形(または糸引人形),飛んだり跳ねたりの飛び人形,人形をのせた台に装置した笛を吹けば動く笛人形,うちわであおいで走らせる車乗りの弥五郎人形,水上を走る浮人形,長いさおを持って平衡を保ちつつ倒れ落ちそうで落ちない張合い人形(弥次郎兵衛),米つき人形,相撲人形などがある。
(5)観賞用人形 おとなの愛玩した美術的な人形としては衣装人形があげられる。頭や手足はたいてい木彫に胡粉を塗り,毛髪を植え,衣装を着せる。江戸時代の書物に〈浮世人形〉とも称しているように,世上のさまざまな人物を作り,ポーズは初めより固定させた飾物の人形である。江戸時代の書物にまた〈若衆人形〉〈野郎人形〉〈おやま人形〉とみえるように,当代の俳優に似せたものが多かった。そのほかに,〈御所人形〉は江戸時代に京都を通過する諸大名が,皇室や公家に贈物をした返礼に与えられたものでこの名があり,肌は白く肉豊かな童形の人形で,あどけないうちにも気品がある。〈極込人形〉は,木彫の人形原型に各種の裂(きれ)地をきめこんだもの。きめこむとは裂地をはって,その端をみぞの中に埋めこむ手法。もと京都賀茂神社の雑掌が元文年間(1736-41)にくふうしたといわれ,賀茂人形ともいわれる。嵯峨人形は,木彫に金箔,群青,ロクショウなどの岩絵具で彩色を施した精巧な小人形。京都嵯峨で作られたのでこの名がある(のちには江戸でも作られた)。初期の題材は福神をはじめ道教,仏教関係の像が多く,京都の仏師がこの製作にたずさわったと思われる。奈良人形は素朴な刀法の味を伝える木彫彩色の人形。奈良春日神社の檜物職,岡野松寿が春日神社の祭礼に飾る人形にならって製作したといわれる。〈三つ折れ人形〉は前記の裸人形のうちの高級品で腰,膝,足首が曲がり,座ることもできた。
古代から江戸時代までの人形の製作者については,容易に知ることができない。古代では朝廷や貴族のもとに製作専門の者が仕えていたと思われる。前述の盂蘭盆の行事に使われる人形の作り物は,近世の初めでは奈良の寺院にいる者が製作していた。土人形などは下層町人,または農民が内職にしたりした。美術人形は木彫や胡粉塗,そのほかの技術の修練を必要とするので,仏師の兼業になるものもあるらしい。なかでも嵯峨人形はその彩色の技法からみると,仏師の作と思われる。御所人形のように胡粉塗にとくに練達を必要とする人形は能面作者の系統のものらしく,京都には〈面庄〉など,屋号に面の字を冠した人形師がいる。御所や公家の注文による雛は,御所に仕えて官服の製作をつかさどった高倉家や山科家で調製した。江戸時代の人形製作者の氏名の知られるものはきわめて少なく,極込人形の高橋忠重,奈良人形の岡野平右衛門(号松寿),同9代目松寿(別名を二皓亭),森川杜園,雛の雛屋次郎左衛門,原舟月,生人形の松本喜三郎,安本喜八などにとどまる。なお,人形製作の図は《職人歌合》《人倫訓蒙図彙》《広益国産考》などに載っている。
明治時代以降,全国各地で生産されていた土人形は衰えて,いわゆる郷土玩具のうちに加えられ,趣味家の間に愛好されるにとどまっていたが,現在は各府県の観光事業によって,その一部は復活した。〈こけし〉はもと東北地方の子どもの玩具であったが,今日では趣味玩具の主要なものになっている。こけしのような手足を省いた人形は,ヨーロッパでも古代から作られていたが,今日も人気を得ているのは,日本のこけしくらいであろう。年中行事の人形や演劇関係の人形については周知のとおりで,3月の雛祭,5月の武者人形,京都の山鉾,博多の山笠,そのほか各地の年中行事の人形は今日むしろ復活の気運がみえる。子どもの遊び相手の人形では,明治以降,着物を着せて売るやまと人形や,顔を焼物で作り,寝かせると目をつむる西洋風の人形が流行しはじめた。大正以降は,子どもの服装の洋装化とともに,やまと人形系統のものに洋装させた人形が現れた。また,ゴム製やセルロイド製の人形,縫いぐるみの文化人形が製作されるようになった。第2次大戦後は,新材料のビニル製の人形が多くなった。ビニル人形は製作しやすいうえにこわれにくく,子どもに危険でないという長所がある。遊びの趣向もいろいろこらされて,ミルクを飲んでおしっこをする人形,髪の毛をカールできる人形,歩く人形,話をする人形,手のこんだ着せ替え人形などが出現した。また小型の人形のコレクションをガラスケースに入れて室内に飾ることが流行した。美術的な人形で今にも存続しているのは,御所人形,極込人形であり,奈良人形は郷土玩具として残っている。極込人形の技法は雛その他に広く用いられている。
さて,現在の日本人形界において特筆すべきことは,この飾物にする人形の製作についてで,それは女性の手芸としての人形作りと,日展や工芸展出品の人形によって代表されるような芸術人形創作のことである。
(1)女性の手芸 家庭で姉様をこしらえたり,裸人形を買ってきて衣装を縫って着せたりする女性の楽しみは,明治時代までみられていた。大正時代末からは都市の若い女性の間に,フランス人形作りが流行しはじめた。この流行には当時のいわゆる文化生活が背景となっていたが,かつての裸人形などにみられた女性の人形手芸への関心がフランス人形作りとなったのであろう。やがてフランス人形の製作技法によって,日本の風俗に取題した〈さくら人形〉と称する人形の製作も一時流行した。現在では一定の材料で手軽に作ることができる極込人形の教室などが,各地で開かれている。
(2)芸術的発展 女性の人形手芸は,また二つの注目すべき人形創作の運動を起こした。(a)男女を問わず人形製作を職業としない人々が,趣味として新しい人形を作りはじめた。これらの人々は木彫や胡粉塗などの修練は積んでいないので,そのほかの材料,技法,すなわち粘土,紙塑(紙を粘土のようにして用いる),張子細工や,またフランス人形式の布帛だけの扱いなどを試みた。これがかえって新しい趣の人形を生みだすこととなった。その題材は,女性や児童の生活のほか,あるいは昔の浮世絵に,あるいは童画に示唆を得ていた。このアマチュアの新人形製作の運動は,人形に新しい世界を開いた。(b)もう一つの動きは,このアマチュアの新人形に刺激されて,人形を家業としている人々の間に起こり,ここでは練達している従来の人形製作技法によって,新時代向きの人形を作ろうと努めた。アマチュアも本職の人々もそれぞれ研究団体をもった。さらに一部の人形愛好家は,これら両者を指導するために日本人形研究会を設け,学者,芸術家を招いて講習会を開き,美術についての基礎的知識を授けたり,人形展覧会を開催したりした。こうしたことの成果は,1936年から人形の帝展(のち日展)や工芸展への進出となって現れた。また第2次大戦後は,そのなかから女性1人を含む3人が重要無形文化財(人間国宝)に指定された。日本の美術人形の一部にあっては,日展出品の人形によって知られるように,従来の人形概念に修正を加えなければならないほどの,新しい傾向の人形も生まれている。たとえば,紙塑人形のような,また,旧来の極込人形,御所人形,衣装人形や写生風の人形にも,それぞれ新しい内容と技法が加えられ,新時代の人形として再生を果たした。
美術人形以外では,近年テレビのアニメーションの人形化なども盛んに行われ,また人形劇も,テレビという新しい舞台を得て,旧来の技法のうえに,斬新な意匠の人形が次々とくふうされている。日本の人形文化は世界の先端をいくものといってよいであろう。
執筆者:山田 徳兵衛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人間の姿を模造して、木、紙、土、布、ゴム、金属、セルロイド、ビニルなどで加工された愛玩(あいがん)品。発生の歴史は古く、最初信仰の対象としてつくられたが、中世以後は鑑賞、趣好用として発達、さらに美術工芸品として扱われるようになるなど、多面的な性格をもっている。製作技法、材料なども、時代や分野により多種多様を極めている。
[斎藤良輔]
人間が自分たちの姿の「雛型(ひながた)」をつくり、それを生きていくうえで心の支えにしようとしたのは、人類文化の始まりとほとんど同じくらい古い時代のことと思われる。木や土、石、藁(わら)などでこれをつくり、神や精霊が宿るものとして神聖視したり、あるいは人間の身代りとして悪病や災難除(よ)けに用いたり、安産、豊作を祈るまじないを目的にしたのが人形の始まりである。現在でも多くの民間伝承や世界各地の少数民族の生活にそれがみられる。病気にかかった際には、木や草で人間の形をつくり、それに病気を移らせて海に流す習俗とか、人形で子供を授かることを祈願するとか、多くの獲物を得たり、穀物を豊かに実らせることを人形に祈ることは、石器時代にもあったらしい。
人形は時代とともに変転した。宗教的儀式や祭礼などに用いられていた人形が、しだいに遊び道具となって子供に与えられるようになった。また愛玩物になると同時に製作技法も進んできて、人形造型の美が鑑賞に堪えうるような美術工芸品にまで、その位置が高められるような発達ぶりを示したのである。
[斎藤良輔]
縄文、弥生(やよい)式文化時代の遺跡からも、原始宗教に結び付いた土偶、土面や、軟質の石でつくった岩偶などが発見されているが、古墳時代になると、古代中国の影響を受けた埴輪(はにわ)が生まれる。この土人形は信仰の対象の祭具としてつくられた。その当時の風俗を表現している点で、現在の人形の祖型が感じられる。古代の人形(ひとがた)は、神聖な力をもつものと信じられていた。それが時代の移り変わりとともに子供の愛玩物になって、たとえば宗教的な儀礼の役割を果たした信仰人形が、遊び用に与えられていったとも考えられる。子供への「みやげ」ということばは、「宮笥(みやげ)」つまり神々の宮にお参りして求めてくる「器物」という意味をもつ。祭器祭具類がしだいに玩具に変転していった過程がここに示されている。子供の誕生の初参りと氏神との結び付きをはじめ、四季を通じての行事や祭礼などにちなむ民間信仰から生まれた人形類が玩具化された例は、現在の郷土玩具に数多くみられる。
平安時代に入ると、人形、形代(かたしろ)、芻霊(くさひとがた)、天児(あまがつ)、中世になるとさらに、這子(ほうこ)などの、植物、紙、布製の信仰人形が登場してくる。いずれも神霊のかわりとして禊(みそぎ)や祓(はらい)に用いられたり、人間の身代りとして病気、災難除けに川へ流したり、幼児の枕元(まくらもと)に置いてその健康を守ったりした。『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に、「土偶人木偶人俗に人形という」とあり、さらにひいな(雛)、ひとのかた(人の形)、艾人(がいじん)、傀儡(くぐつ)などの語がみえ、さまざまな種類のあったことを示している。そのなかで、「ひとがた」が人形の総称に用いられていたらしい。これを「にんぎょう」と現在のように読み始めたのは、鎌倉時代初期とされる。書物のうえでは、室町時代に入って『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』に「御人ぎやう」と記されているのが最初ともいう。平安時代、これらの信仰人形のほかに、貴族階級の間には「ひいな」(雛)があった。男女をかたどった、子供のままごと遊び用の人形である。これらは互いに作用しあって、江戸時代に雛人形として発達、日本の人形作りの中核となった。
「にんぎょう」ということばが一般に用いられるようになったのは、江戸時代からのことである。鎖国下の長い太平の生活から商工業が興隆し、それにつれて人形も商品として需要が増えた。仏師や能面師などの転職参加もあり、人形製作技法も目覚ましく向上して、精巧優美な日本人形独特の作品が登場した。ことに雛祭の流行から、美術的な雛や、それに付随してさまざまな節供人形がつくられるようになった。江戸初期には簡素な紙雛が飾られたが、しだいに裂(きれ)製の座り雛(内裏雛(だいりびな))が現れた。寛永(かんえい)雛に続いて大型で豪華な享保(きょうほう)雛、京都産の古典的な次郎左衛門雛、江戸生まれの写実的で優美な古今(こきん)雛などが次々に流行した。雛段が数を増すにしたがい、内裏雛のほかに三人官女、五人囃子(ばやし)、随身(ずいじん)、衛士(えじ)などの決まり物や、あるいは能・狂言に取題したものなどを添えて飾るようになった。節供人形は、5月の端午の節供にも最初冑(かぶと)人形がつくられ、やがて神功(じんぐう)皇后と武内宿禰(たけしうちのすくね)、鍾馗(しょうき)や英雄・豪傑を人形化した武者飾りなどが現れた。
また一般家庭でも愛玩、鑑賞用の人形が数多くつくられた。京都産の御所人形は幼い男児の裸像で、大きな頭に横太りの肢体の美術的人形である。京の禁裏や公家(くげ)が大名家の挨拶(あいさつ)に対する返礼にこの人形を贈ったので、御所人形の名がついた。京坂地方では、若衆形俳優佐野川市松(いちまつ)に似せた通称市松(いちま)人形が人気を集めた。腰、膝頭(ひざがしら)、足首が折れて座れるようにつくられているので、三つ折れ人形ともいい、家庭で衣装を縫って着せたり抱いたりして遊んだ。この種の人形は明治以後も親しまれ、昭和期に入ると「やまと人形」の名でよばれた。昭和初期にはその代表作が人形使節としてアメリカへ渡り国際親善の役目を務め、人形の社会的地位を高めた。
御所人形のほか、京都産では木目込み技法の木目込(きめこみ)人形(賀茂(かも)人形)、木彫りに金銀絵の具を極彩色に盛り上げるように塗って仕上げた嵯峨(さが)人形などがあった。信仰から発した土人形は、伏見(ふしみ)人形を源流として、幕末には全国で100近い産地が数えられた。多くは社寺の門前市、縁日などの土産(みやげ)物、節供人形としても飾られた。子供の悪病除けや出世開運、さらに豊作祈願、商売繁盛などを願う民間信仰と結び付き、現在も郷土玩具として生命を保っている。この仲間には、張子細工や練り物製の人形が各地にみられる。木製では東北地方のこけしや、熊本のべんた人形などの郷土人形があげられる。さらに大きなものでは、平安時代の大嘗会(だいじょうえ)の標山(しめやま)の形から生まれた山車(だし)人形がある。祭礼に引き出したり担いだりする屋台(山車)に飾る人形類で、等身大あるいはそれ以上の大型が多い。山車人形は祭礼の見せ物の中心となっていて、京都祇園(ぎおん)の山車人形、飛騨(ひだ)高山の高山祭の山車人形などが知られている。また平安末期に、手操(あやつ)りの人形を踊らせて見せ歩いた旅芸人の傀儡(くぐつ)回しが、江戸初期になって浄瑠璃(じょうるり)と結び付き、人形浄瑠璃芝居が生まれた。大坂にまず人形浄瑠璃劇場の竹本座が出現し、人形も、突っ込み人形、片手人形から、3人で操る複雑な人形劇に成長し、現在の文楽人形芝居が伝統を継いでいる。そのほか水や砂、水銀などを利用して人形を動かす「からくり人形芝居」、人間そっくりの写実的な生き人形、菊の花で細工した菊人形などを見せ物として興行されるものもある。座敷芸としてもこの種の操り人形が用いられ、野呂間(のろま)人形、手妻(てづま)人形、碁盤人形などが江戸時代にはみられた。野呂間人形芝居などは佐渡島(新潟県)の郷土芸能となって、いまもその名残(なごり)をみせている。
明治期以後は、欧米風の人形が流行するようになった。大正期から昭和前期にはセルロイド人形などが盛んに出回った。第二次世界大戦後はビニル製の人形が登場し、伝統的なものでは、福岡市の博多(はかた)人形などが日本独特の民芸品として海外にも知られている。なお、大正中期ごろから婦人の手芸としてフランス人形作りが流行するなど、人形創作運動が盛んになってきて、現代日本風俗を扱った新日本人形の製作がおこってきた。昭和初期からは、人形作家の間で人形の芸術的向上を目ざす運動がみられてきて、粘土のかわりに紙を生麩糊(しょうふのり)で練って用いる紙塑(しそ)人形のような製作技術も生まれた。1936年(昭和11)第1回帝国美術院展覧会(帝展、後の日展)の工芸部に人形6点が初めて入選。人形が芸術作品として認識されるようになり、1955年(昭和30)には人形作家平田郷陽(ごうよう)、堀柳女(りゅうじょ)、1961年には鹿児島寿蔵(じゅぞう)が重要無形文化財保持者に認定された。
[斎藤良輔]
子供が自然物を玩具化して遊んでいた時代には、野山の植物を材料としたとうもろこし人形、松かさ人形などがあった。1815年(文化12)刊の『骨董集(こっとうしゅう)』(山東京伝著)には、「今の世の女童(めわらは)、ひいな草を採(とり)て雛(ひな)の髪を結ひ、紙の衣服などして平日(つね)の玩具(もてあそび)とす」とあり、春の野草を摘んで少女が人形遊びをしたことを記している。子供の遊び相手としての人形が、商品として一般に登場してきたのは江戸時代からで、1686年(貞享3)刊の『好色五人女』(井原西鶴(さいかく)著)に「目鼻なしの裸人形」とあり、子供の裸姿に腹掛けをした人形が描かれている。5、6歳くらいの幼女の姿をしたものが多く、30センチから60センチほどのものがほとんどで、家庭で着物を縫って着せた。子供の抱き人形として愛玩され、着物を着せ替える遊びを主とした着せ替え人形もあった。現在のやまと人形の原型で、江戸中期から雛祭にも並べた。最初は簡単な作りだったらしいが、三つ折れ式の精巧な市松人形などが出現した。紙製では姉様が少女たちの人形遊びに用いられた。千代紙細工などの衣装を着せた紙人形で、多くは家庭の手作りであったが、のちに商品化されたものも出回った。婦人の髪形を美しく強調した人形で、材料も土地により布、土、練り物、きびがらなどが用いられ、現在も郷土玩具として残っている。明治期以後はさらにゴム、セルロイド製などが加わってくる。ゴム人形は、明治30年代に入ると、鉄製外型にアンチモンを流し込んで型をつくる方法が開発され、国産の笛入り物などが盛んにつくられた。
明治40年代からは、横に寝かせると眠った表情になる眠り人形の国産品も登場してきた。大正期から昭和期にかけては、セルロイド製のキューピー人形が子供たちの人気を集めた。またそのころ布製の抱き人形では、文化人形が代表的な作品であった。レーヨン、メリヤスなどで頭、胴、手足を縫いぐるみにつくり、中にパッキングまたはおがくずを詰めたものである。スタイルは洋装だが、明治時代まで各家庭で少女の遊び相手につくられた縫いぐるみの「負い猿」(おさる)の系統にあたる。衣装を短く着けていて手足はぶらぶらしているので、「ぶらぶら人形」ともよばれる。胴に笛が入っていて押すと鳴るのもある。比較的安価で、普段抱いて遊ぶのに適しており、現在も人気がある。着せ替え人形では、明治中期ころに「ホーム」というセット物が登場した。10~15センチメートルほどの練り物製人形に、帯着物一式がついているもので、当時の少女たちの間で流行した。大正期には、厚紙へ彩色印刷した衣装を紙人形に着せる切抜き式のものがみられ、小物玩具として普及した。
第二次世界大戦後にはビニル製人形が登場した。ミルク飲み人形、カール人形、お話人形、歩行人形などが続いて現れ、少女たちに愛玩された。ソフトビニル製、電動式など本物そっくりの肌ざわりで、動きが加わってきた点に特徴がある。1960年(昭和35)には、約30センチメートルの黒人のビニル人形「だっこちゃん」がブームを巻き起こして話題となった。男の子向きには怪獣もの、SFもののテレビ番組、漫画の主人公などを人形化したキャラクターものが出回っている。なお人形愛好層が拡大され、最近は成人向きのアンチック・ドールなどにも人気がある。
[斎藤良輔]
現存している人形で最古のものには、紀元前2000年ころのエジプト王朝の墳墓から発見された、副葬品の人形がある。体は木でつくられ、胴の部分に幾何学模様が彩色されていた。頭には数珠(じゅず)のようなものを数条垂らしてあり、兵士、従者などにかたどった木彫り人形が添えられてある。これらは家屋や船などの模型とともに埋葬されていた。また前1000年以前の幼児の墓に、木彫り彩色の人形で、手が動くようになっていて、当時の衣装を着けたものが埋葬されている。すでに少女の遊びのための人形が存在していたことが想像される。また紐(ひも)を引くとパンをこねる動作をする木彫り人形もあった。前500年ころの古代ギリシアの遺跡からは、土製の信仰人形が発掘された。なかには騎馬人形や鳥に乗った子供の人形などがある。古代中国でも殉死者の代用品として、俑(よう)(土人形)を死者とともに埋葬した。またローマ時代には、祖先にかたどった人形を家の神として祀(まつ)る風習があった。この習俗は、ヨーロッパ各地の農家などでは近世までみられ、人形は病気、災難除け、豊作祈願などさまざまな信仰の対象としてつくられた。13~14世紀には、イタリアのナポリを中心に、キリストの降誕の場を人形でつくり、一般家庭でクリスマスの祝いに飾ることが流行し、ヨーロッパ各地で行われるようになった。このころから人形はまた信仰と離れた別な道を歩み始めた。
14世紀初期フランスのパリでは、衣装店が布製の人形を考案し、これに最新流行の衣装を着せ、一種の見本として外国へ送り出した。これはファッション・ドールの先祖にあたる。つまり19世紀に入って、衣装カタログが写真や印刷物でつくられ宣伝されるようになるまで、流行伝達の人気者としての役目を果たしたのである。これがフランス人形の始まりといわれる。15世紀ころ、ドイツの森林地帯にあるニュルンベルクを中心に、人形玩具、家具などをつくる工匠ギルド(同業組合)が生まれ、ヨーロッパの人形玩具の主産地となった。16世紀から18世紀にかけて、このギルドの工匠たちによって「人形の家」がつくられ、ヨーロッパの上流社会に流行した。これは、貴族たちの屋敷と家族の生活模型を正確な縮尺につくり、前面の壁を外して鑑賞するものである。最初はドイツの貴族たちの注文でつくられたが、「人形の家」はしだいにフランス、オランダ、イギリス、イタリアなど、ヨーロッパ各地の貴族の間に流行した。多くの人を招いて所蔵の「人形の家」を公開、鑑賞させた。これはまた富裕を誇示する象徴でもあった。最古のものは1558年の作品が記録されている。なお、イギリス、ロンドンにあるベスナル・グリーン博物館には、1673年から1974年までの「人形の家」の作品が収蔵され、イギリスにおける最大のコレクションを誇っている。
そのほか蝋(ろう)人形は、宗教的なものとして4世紀ころからつくり始められていたが、17世紀にはドイツで石膏(せっこう)、粘土、張子製、19世紀には人形劇がヨーロッパで流行し、また陶製人形が現れた。19世紀末にはゴム人形やセルロイド人形がつくられるようになった。しかしセルロイドは引火しやすい欠点があるので、その後、不燃性セルロイドや合成樹脂が用いられている。このほか各民族の生活風俗を反映した多くの人形があり、それぞれ特産の材料を用いたものがみられる。アジア、ヨーロッパ各地には、糸操り人形(マリオネット)や指人形(ギニョール)があり、インドネシアなどの伝統的な影絵(ワヤン)人形、中国の張子人形、スペインのフラメンコ舞踊人形、アメリカのラッグ・ドール(ぼろ布人形)、スイスの木彫り人形、ロシアのクークラ・グレルカ(ポット保温用人形)、チェコのガラス人形など、愛玩、室内装飾、実用、鑑賞向きのさまざまなものがある。また各国で固有民族衣装の人形類などが、観光土産用にもつくられている。
ヨーロッパの子供向き人形は、8~9世紀ころ古布でつくったものが現れ、14世紀ころには、イギリスに騎士人形、ドイツにトッケンとよぶ木製人形などが登場してきて、人形がこれまでの信仰の対象から離れ、子供の遊び相手となった。トッケンは後にドッケンとよばれ、人形生産の中心地となったドイツのニュルンベルクでは、それを職業とする工匠たちはドッケン・マッハー(人形作り)とよばれた。男の子のためには17世紀に銀製の兵隊人形が貴族家庭で愛玩され、18世紀に入るとニュルンベルクで錫(すず)製の兵隊人形が生まれた。アンデルセン童話の「一本足の兵隊」もこの錫製の人形で、これを使う戦争ごっこ遊びがヨーロッパ各地で流行した。また女の子のためには紙製の指人形、首の動く抱き人形、さらに19世紀にかけてはこれまでの成人の顔つきのものから、新たに無邪気な子供の表情をもつ作品が登場してきて、人形が子供のためになりきる黄金期を迎えた。イギリスのベビー人形がその道を開いた。
19世紀に入ると機械人形が発達して、アクションつきのオルゴール人形がスイスやドイツで生まれた。フランスやアメリカでは歩く人形が現れた。頭は陶製、胴は練り物製の眠り人形も生まれた。18世紀から19世紀にかけて、ビスク(素焼を二度焼きしたもの)を頭に用いた美しい抱き人形が製作されて流行した。フランスのジュモー、ゴーチェ、ドイツのスタイネルなどがその人形製作者として知られ、現在もアンチック・ドールの代表的な作品として人気を集めている。
[斎藤良輔]
『西沢笛畝著『日本の人形と玩具』(1975・岩崎美術社)』▽『西沢形一・藤間寛著『日本人形のあゆみ』(1986・芸艸堂)』▽『読売新聞社編・刊『The西洋人形』(1983)』
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…邦訳《椋のミハイル》),《アンテク》《手回し風琴》(ともに1881),《チョッキ》(1882)などの傑作を残した。84年以降おもに長編を手がけ,農地解放後のポーランド農民の劇的状況を描いた《前哨》(1885),時代の大きな問題であった女性解放を扱った《解放された女性》(1890‐93発表),同時代のポーランド社会への暗示が明瞭な,古代エジプトを題材にとった歴史小説《ファラオ》(1895‐96発表),そしてプルス最高の作品であり,80年代実証主義文学の最も円熟した作品とされる《人形》(1887‐89発表)を著した。《人形》は当時のポーランドの社会と風俗のパノラマをもとに,〈諸国民の春〉から一月蜂起,実証主義運動,1880年代までのポーランド史の検討を企図した壮大な叙事詩である。…
…6月,12月の晦日に行われる恒例の大祓(おおはらえ)の儀には,〈御贖(みあがもの)〉として〈鉄人像,金装横刀,五色薄絁,糸,安芸木綿,凡木綿,麻,庸布,御衣,袴,被,鍬,米,酒,鰒,堅魚,腊,海藻,塩,水盆,坩坏,匏,柏,小竹〉を使用したことが《延喜式》に見えている。一条兼良の《公事根源》(応永年間撰)は〈あが物は身のわざはひをあがふ物をいふ心なり,人形を作て,身の代とする事おなじ心なるにや〉と述べ,罪穢を移して河海に流しやる人形(ひとがた)と贖物との関係を指摘している。なお,刑罰の科料としての贖物は刑部省に収められた。…
…人,器財,動物などを模してそれに代わるべきものを作り,種々の呪術を行う道具。人形,馬・牛・鳥・鶏・犬形,刀・剣・鉾・鏃形,車・輿・舟形,男茎形など多種にわたり,素材も紙,布,木,鉄,スズ,銀,金,土製と多様である。飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し後代につづく。…
…3月3日に雛人形を川に流し送る行事。雛祭の人形は,それで身をなでて穢れをはらったあと流し去る人形(ひとがた)(形代(かたしろ))という呪具の系統をひくものとされるが,現在の各地に残る流し雛はそのような古い心意を伝える行事と思われる。…
…人形は,人間の生活する地域には必ずといってよいほど存在し,その表現法や材料に相違があって巧拙さまざまではあるが,人間の姿・形を作り出そうとしなかった民族はいない。また人形が作られる目的も今日のようにもっぱら児童の愛玩用や玩具として作られたのではなく,むしろその大多数は呪術宗教的な目的や習俗に関連して作られたもので,人形の起源もこれに由来すると考えられている。…
…3月3日の(三月節供)の行事。この日の行事は雛人形を飾り祭るものと,山遊び・磯遊びとに大別できる。雛人形を飾り祭るのは,中国伝来の3月上巳(じようし)の行事と日本に古くからある人形(ひとがた)によって身をはらおうとする考え,および貴族の幼女の人形遊びとが結合して,室町時代ごろに一応の形を整えたといわれる。…
…船霊は多くの場合船大工が管掌し,新造した船の船下しの直前に船にこめるのが普通である。船霊の神体とされるものは,男女一対の人形,銭12文,さいころ,あるいは女の毛髪であることが多く,これに化粧品,櫛,かんざし,はさみなどの女の持物や五穀を加えることもある。また神社や寺のお札をはりつけるだけのところもある。…
…いぼの民間療法は多く,いぼとなにか他のものとの間に箸を1本渡し,〈いぼいぼこの橋渡れ〉というと,いぼは橋を渡って他に移るので治るなどという呪法もある。これは病気にかからぬまじないとして紙の人形(にんぎよう∥ひとがた)で身をなで,これを川に流す厄払いと同じく病気を穢れ(けがれ)の一種とみて,これを他に移動させて自分の病を治そうとする接触療法の一つである。この系統の考えは現在まで,風邪をひいたとき他人にうつせば全快するなどという思考法として尾をひいている。…
…人,器財,動物などを模してそれに代わるべきものを作り,種々の呪術を行う道具。人形,馬・牛・鳥・鶏・犬形,刀・剣・鉾・鏃形,車・輿・舟形,男茎形など多種にわたり,素材も紙,布,木,鉄,スズ,銀,金,土製と多様である。飛鳥時代中国から伝わり藤原宮期に確立し,奈良・平安時代に盛行し後代につづく。…
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【玩具の起源】
現世人類がこの地球上に現れたころに,はたして玩具として位置づけられるものがあったかどうかは予測しがたいが,玩具に発展しうるものがすでに存在していたことははっきりしている。現存する最古の玩具は,古代エジプト時代の墳墓から出土しているものが多いが,その中には,人形,動物のミニチュア,舟のミニチュア,ボール,こま,がらがらなどがある。また,現代になっても,近代文明のいきわたっていない民族の間で親しまれている玩具を探ってみると,アメリカ・インディアンの鹿皮のボール,紀元前1500年ぐらいから続いているといわれるメキシカン・ボール,ニューギニアの木の葉を利用して作った帆舟,北アメリカのホピ・インディアンが儀式が終わると子どもに与えるという人形,アフリカのコーサ族のトウモロコシの穂軸で作られた人形などがある。…
…日本全国それぞれの土地で古くから自給自足的につくられ,主として子どもたちの遊び道具として親しまれてきた伝承的な人形玩具類。そのほとんどが江戸時代から明治期にかけて生まれたもので,いずれもその土地の生活風俗などに結びついている。…
…人形を操って演じる劇。人形芝居ともいう。…
…縁起人形の一種。童顔の大頭で裃をつけて座った人形。…
…いぼの民間療法は多く,いぼとなにか他のものとの間に箸を1本渡し,〈いぼいぼこの橋渡れ〉というと,いぼは橋を渡って他に移るので治るなどという呪法もある。これは病気にかからぬまじないとして紙の人形(にんぎよう∥ひとがた)で身をなで,これを川に流す厄払いと同じく病気を穢れ(けがれ)の一種とみて,これを他に移動させて自分の病を治そうとする接触療法の一つである。この系統の考えは現在まで,風邪をひいたとき他人にうつせば全快するなどという思考法として尾をひいている。…
※「人形」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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