大師堂跡(読み)だいしどうあと

日本歴史地名大系 「大師堂跡」の解説

大師堂跡
だいしどうあと

[現在地名]高野町高野山

釈迦文しやかもん院の東にあったが明治以降廃絶し、現在旧敷地は金剛峯こんごうぶ寺貯木場となっている。「高野伽藍院跡考」は「古院記云治承四庚子年十月七日於南谷内証上生院或号慈氏堂又唱大師堂願主円城(寺か)前大僧正頼喜(禎喜か)也」と記すが、「続風土記」は諸記を勘案して治承二年(一一七八)開基であろうとする。しかも文明五年(一四七三)の諸院家帳には内証上生院は谷上たにがみの条にあり、また慈氏堂も別にあるので、院跡考所引の古院記の記事は決しがたいとしている。


大師堂跡
だいしどうあと

[現在地名]高野町高野山

西にし谷の東側、不動ふどう院の東向いにあったが、現存しない。「紀伊名所図会」では向拝付きの小堂が南面して建ち、その前に池を描く。日輪大師を本尊とし、嵯峨天皇の第二皇子が建立、のちに熊野の榎本豊前守が再建したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む