大戸庄(読み)おおとのしよう

日本歴史地名大系 「大戸庄」の解説

大戸庄
おおとのしよう

中世の香取海に流入していた小野おの川と大須賀おおすか川に挟まれた現佐原市南西部から現大栄たいえい町にかかる台地およびその縁辺の谷津田に比定される庄園。本家は摂関家(近衛家)、領家職は南北朝末期から室町初期頃に伊勢神宮の皇大こうたい神宮権禰宜荒木田定延および粟田口大納言(近衛忠輔か)家から京都長福ちようふく(現京都市右京区)へ寄進されている(年欠「足利義満袖判長福寺領目録案」久我家文書)。大戸庄の前身嘉承―長承(一一〇六―三五)のものとみられる香取社大禰宜大中臣真平譲状(香取文書、以下断りのない限り同文書)に香取社の「末社大戸宮社領」、仁安二年(一一六七)二月一一日の大禰宜真房(実房)譲状に「末社大戸神領」とみえ、現佐原市大戸の大戸神社の社領であった。その成立は白河院政期の嘉保年間(一〇九四―九六)、真平の父助員の代に関白藤原師通の申請により下された宣旨によって行われた神戸田設定にあるとみられる(前掲真平譲状・真房譲状)

大戸宮社領は大禰宜家領のなかで、大禰宜家大中臣氏の相伝私領の葛原くずはら牧内織幡おりはた・小野両村に次ぐ中核的な位置を占め、これらを含む大禰宜家領は真平から実房を経てその嫡子惟房に譲与された。この間、長寛二年(一一六四)六月に大禰宜真房は関白近衛基実家政所下文を得て「大戸・神崎并小野・織(幡)村」の知行を認められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報