日本歴史地名大系 「神崎庄」の解説
神崎庄
こうざきのしよう
中世、香取海に突出した岬島状の神崎森を中心とする下総台地から利根川河畔域を庄域とする。本家は摂関家(近衛家)。当庄の前身は、応保二年(一一六二)六月三日の大禰宜実房譲状(香取文書)によって香取社大禰宜実房から次男知房に譲られた神崎社宮司に付属した神崎社領で、長寛二年(一一六四)六月、大禰宜真房は関白左大臣近衛基実家政所下文(同文書)を得て「大戸神崎并小野織服村」の知行を認められた。その背景には香取大宮司職をめぐる大禰宜大中臣氏と鹿島大宮司中臣氏間の紛争があり、大禰宜家が近衛家への接近を図り、神崎社領を
神崎庄
かんざきのしよう
郡の中南部やや東寄りに設置され、北は
荘名は年号は不明ながら壬生家文書の官中便補地由緒注文案にみえ、これによると、神崎庄は小槻隆職の開発功力によって立荘、安元二年(一一七六)の官宣旨で子々相伝知行が確認された。「門葉記」所収の、弘長三年(一二六三)の官御祈願所注文状には、祈祷料を進納する地の一つとして神崎庄があげられ、時の領家は長井判官代泰氏とある。
神崎庄
かんざきのしよう
古代の寒川郡
立庄後、神崎郷は中世を通じて史料上に表れない。また政所下文も神崎郷の立庄を命じただけで、その四至を記していないところをみると、当庄はもともと公領であった神崎郷をまるごと庄園化したものと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報