日本歴史地名大系 「大持村」の解説 大持村おおもつむら 山口県:厚狭郡山陽町大持村[現在地名]山陽町大字埴生(はぶ)厚狭郡の西部、瀬戸内海に南面した小埴生(おはぶ)村から糸根(いとね)川をさかのぼった山間の小農村。長府藩領に属する。東は萩藩領土生(はぶ)浦、南は長府藩領小埴生村、西は萩藩領松屋(まつや)村(現下関市)、北は同吉田(よしだ)村(現下関市)に接し、南以外は標高一〇〇メートル以上の山に囲まれている。長府藩領となったいきさつは不明。慶長五年(一六〇〇)の検地帳では埴生村、同一五年の検地帳では埴生庄に一括記載されていると考えられる。「地下上申」は、萩藩領の「埴生村地方」の説明中、石高一六〇石が長府藩領の大持村で「御百姓御座候」と記すが、家数・人数は明らかでない。 大持村だいもちむら 兵庫県:赤穂郡上郡町大持村[現在地名]上郡町大持上郡村の西、井上(いのかみ)村の南に位置し、千種(ちくさ)川右岸平野に立地する。慶長一四年(一六〇九)の赤穂郡竹万村之内大持村検地帳(大持区有文書)によれば、田三町余。江戸時代の領主の変遷は元禄一四年(一七〇一)までは上郡村に同じ。同年以降は井上村に同じ。慶長国絵図に「大うち村」とみえる。正保郷帳には大持村とみえ、田高三四一石余・畠高六一石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by