大牟田村
おおむたむら
[現在地名]高崎町大牟田
長尾山(四二六・五メートル)の東麓に位置し、南は東霧島村。村内中央を高崎川が南流し、東霧島村よりの真幸往還と縄瀬村よりの高城往還が村の北西で交わっている。江戸時代は初め高原郷に所属したが、延宝八年(一六八〇)新設された高崎郷に編入された(三州御治世要覧)。なお地内の小字に田平があり、北郷忠相等三代日帳写(都城島津家文書)に永禄五年(一五六二)七月九日のこととして「高原口田平破候、矢合両長井殿悪日にて候」と記されるが、「高原口」の記載からして当地の田平をさすのであろう。また「上井覚兼日記」によると、覚兼は天正一二年(一五八四)五月に肥前から宮崎に帰る途中、一一日に野尻(現野尻町)に一泊、同書翌一二日条には「早旦打立候、衆中皆々随身候、田比良坂之上にて破籠思々ニ用意共也、良久酒なと賞翫にてやすらひ候、申之刻計宮崎へ着候」と記されるが、「田比良坂」は田平をさすのであろうか。
大牟田村
おおむたむら
[現在地名]塩田町大字真崎字大牟田
現鹿島市最北西部にあたる森村の西隣にあり、北には塩田川が流れる。正保絵図に村名がみえる。
この地は、幕末に書かれたと思われる常広村記録(松尾氏蔵)によると、慶長一四年(一六〇九)に鹿島初代藩主和泉守忠茂が藤津郡内に一万石を与えられたときには「凡地米三百弐拾八石余」として鹿島領地であったが、同一六年の検地による三部上地により佐賀本藩に取り上げられ、寛永一六年(一六三九)の蓮池藩設置により蓮池支藩領となった。
現在この地には大牟田教会所と称する浄土宗の庵がある。文化・文政(一八〇四―三〇)の頃一つの堂があったが、文政八年に火災に遭い石の如来像を置いた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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