大筧
おおかけい
藩主の居館であった花畑館の池水用に引水された水道。水道としては宝永六年(一七〇九)に設置された、白川小磧から分水して子飼・千反畑・水道町を経て手取本町を通り、厩橋で坪井川に注ぐ水道とともに、花畑館の池泉用の水道があった。その水道の使用が中止され、代わって藩主細川宣紀時代(一七一二―三二)に新しい大筧とよばれる水道が使用されることとなった。「国誌」は「御水道也、此水道ハ詫摩郡大江村ノ内白川ノ分流ニ磧ヲ設ケテ分水シ、本庄村代継神社ノ後ヨリ高田原西岸寺ノ脇ヘ此水道ヲ渡シ、山崎ヲ通リテ即チ華畑館中ニ流入ス」と記している。現在も白川の渡鹿六丁目から、加藤清正が託麻原一帯の用水のために設けたといわれる渡鹿堰があり(藤公遺業記)、その水を流す大井手が造られた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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