大蔵谷村
おおくらだにむら
[現在地名]明石市大蔵天神町・大蔵本町・大蔵中町・大蔵町・大蔵八幡町・大蔵谷・東人丸町・太寺一―四丁目・太寺大野町・太寺天王町・荷山町・東野町・朝霧町一―三丁目・東朝霧丘・中朝霧丘・西朝霧丘・松が丘一―五丁目
南の明石海峡と北の六甲山地西端の台地とに挟まれ、西は明石城の東外堀、東は山田村。山陽道沿いに発展した宿場町を抱えた半農半漁の村。明石藩東浦辺組に所属。「播磨国風土記」逸文(釈日本紀)に「住吉の 大倉向きて」とあり、当地が遺称とされる。古代山陽道の明石駅を当地に求める説があったが、近年の発掘調査結果によって神戸市西区の吉田南遺跡が有力視されている。中世にも山陽道が通り、畿内と以西の地域との結節点であった。「源平盛衰記」巻三八によると一ノ谷合戦に敗れた但馬守経正(平敦盛兄)の落行き先として「大蔵谷」がみえる。弘安八年(一二八五)八月一〇日奈良西大寺叡尊が同寺への帰途大蔵谷に寄っている(感身学正記)。元弘二年(一三三二)三月後醍醐天皇が隠岐へ流される途中にも「大倉谷」を通過したという(「増鏡」巻一六)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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