大迫尚道(読み)オオサコ ナオミチ

20世紀日本人名事典 「大迫尚道」の解説

大迫 尚道
オオサコ ナオミチ

明治・大正期の陸軍大将



生年
嘉永7年7月25日(1854年)

没年
昭和9(1934)年9月12日

出生地
薩摩国(鹿児島県)

学歴〔年〕
陸士〔明治12年〕卒

経歴
薩摩藩士大迫新造の二男。明治12年砲兵少尉、参謀本部員を経て、22年ドイツに留学し、ドイツ公使館付武官となる。帰国後、野砲第1連隊大隊長となり、日清戦争で第1軍参謀、日露戦争では第2軍参謀長として奉天会戦を指揮した。その功により39年野砲兵監となり、第18師団長、第4師団長などを歴任。大正4年大将、軍事参議官となった。8年予備役編入、13年退役した。その後は救世国を組織、愛国思想の鼓吹に努めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「大迫尚道」の解説

大迫尚道

没年:昭和9.9.12(1934)
生年:安政1.7.25(1854.8.18)
明治大正期の陸軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士大迫新造の次男。陸軍大将大迫尚敏は兄。明治12(1877)年陸軍士官学校卒業(砲兵科)。参謀本部員,局長を経て22年ドイツへ留学,最新の砲術を学んで帰国。日露戦争(1904~05)には野戦砲兵第2旅団を率いて出征,203高地から旅順港を砲撃してロシア旅順艦隊を壊滅追い込み,その功で戦後,野砲兵監に進んだ。のちに第4師団長,軍事参議官へ転じ大正4(1915)年大将に昇進した。退役後は救世団を組織,愛国思想の鼓吹に努めた。また大正9年の東京市電ストライキの仲裁に当たり,免職になった職員の多くを明治神宮造営事業にあっせんするなど,武人一辺倒ではない多彩な活動をみせた。

(山崎有恒)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大迫尚道」の解説

大迫尚道 おおさこ-なおみち

1854-1934 明治-大正時代の軍人。
嘉永(かえい)7年7月25日生まれ。大迫尚敏(なおとし)の弟。駐ドイツ公使館付武官,陸軍大学校教官などののち,日清(にっしん)戦争では第一軍参謀,日露戦争では第二軍参謀長をつとめる。第十八師団長,第四師団長などを歴任。大正4年軍事参議官,陸軍大将。昭和9年9月12日死去。81歳。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身。陸軍士官学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「大迫尚道」の解説

大迫 尚道 (おおさこ なおみち)

生年月日:1854年7月25日
明治時代;大正時代の陸軍軍人。大将;陸大教官
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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