奉天会戦(読み)ほうてんかいせん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奉天会戦」の意味・わかりやすい解説

奉天会戦
ほうてんかいせん

1905年(明治38)3月に行われた日露戦争最後の大規模な陸上戦。同年1月日本軍が旅順(りょじゅん)攻略に成功したのち、満州軍総司令部(総司令官大山巌(いわお))は乃木(のぎ)軍の転進を待って第一線兵力25万を集中し、ロシア軍を殲滅(せんめつ)して戦局を決定することを意図した。奉天(現瀋陽(しんよう))を拠点とするロシア軍(総司令官クロパトキン)も32万の兵力を集中して対峙(たいじ)していたが、3月1日、両軍全線で戦闘を開始した。戦局は容易に進展しなかったが、7日、9万の死傷者を出したロシア軍は次期会戦に兵力を温存するため退却した。10日、日本軍は奉天を占領したが、7万の損害を受けて追撃余力を失い、敵主力の撃滅という目的を達成できなかった。この会戦の結果、日本は戦力の限界を自覚し、これ以後大規模な作戦を企画できなかった。ロシアも打ち続く敗戦が革命の機運を醸成することを恐れたので、この会戦を機に講和が日程に上った。日本はこの戦勝を記念して奉天占領の3月10日を陸軍記念日とした。

藤村道生

『沼田多稼蔵著『日露陸戦新史』(岩波新書)』『谷寿夫著『機密日露戦史』(1966・原書房・明治百年史叢書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「奉天会戦」の意味・わかりやすい解説

奉天会戦 (ほうてんかいせん)

1905年3月,奉天(現,瀋陽)付近で戦われた日露戦争中最大の陸上戦闘。前年,南満州(中国東北部南部)の諸戦闘に敗れたロシア軍は冬季間に本国から増援をえて(計32万),融氷とともに反撃に出ようとした。日本軍の満州軍総司令官は大山巌元帥,ロシア軍の極東陸海軍総司令官はクロパトキン大将であった。日本陸軍は旅順要塞攻略後の第3軍を合わせ満州軍全力(25万)をもって,ロシア軍の機先を制し3月1日から行動を開始,敵の両翼を包囲するように攻撃前進した。戦意を失ったロシア軍は退却にうつり3月10日奉天は陥落した。日本は敵主力の包囲には失敗し,攻撃力の極限に達したが,この勝利によって講和の気運はいっそう促進されることになった。旧陸軍は3月10日をのちに陸軍記念日とした。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奉天会戦」の意味・わかりやすい解説

奉天会戦
ほうてんかいせん

1905年2月 20日から3月 10日にかけて旧満州 (中国東北地方) の奉天 (現在の瀋陽) をめぐり,日露両軍の行なった会戦。日本軍の勝利となり,日本海海戦とともに,日露戦争全体の勝敗の決め手となった。日本軍は大山巌満州軍総司令官のもとに 25万人の兵力をもって,A.クロパトキン大将の率いるロシア軍 35万人を,奉天城において両翼包囲した。だが兵力不足で包囲が不十分になったうえ,予備軍をもっていなかったためにロシア軍 35万人のうち 26万人は北方に脱出して殱滅 (せんめつ) 戦にまではいたらなかった。死傷は日本軍7万人,ロシア軍は捕虜を含めて9万人に上った。寡兵で大軍を包囲し,きわどい軍事的勝利を収めたものとして戦史上有名。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「奉天会戦」の解説

奉天会戦
ほうてんかいせん

1905年(明治38)3月の日露戦争中最大で最後の陸戦。旅順陥落後,日本軍は内地の1個師団を除いて全軍を集中し,奉天(現,瀋陽)付近のロシア軍主力を包囲撃滅する作戦をたてた。日本は25万,ロシアは32万という兵力を投入,3月1日から総攻撃が開始されたが,ロシア軍の数的優勢の前に容易に決着はつかず,1週間の激戦の後ロシア軍が後退し,3月10日に日本軍はようやく奉天を占領した。しかし日本軍は奉天北方の鉄嶺付近にまで進出したものの兵力・弾薬を消耗し尽くし,ロシア軍は増援軍を含め大兵力を集中して決戦に挑む構えであった。ここに日本はやむなく講和工作に期待することとなった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「奉天会戦」の意味・わかりやすい解説

奉天会戦【ほうてんかいせん】

1905年3月,日本軍25万が32万のロシア軍を奉天(現,瀋陽),撫順の線で包囲した戦い。日露戦争最大の陸戦となり日本軍は奉天を占領。→クロパトキン

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「奉天会戦」の解説

奉天会戦
ほうてんかいせん

1905年,日露戦争における最大・最後の陸戦
クロポトキンの率いるロシア軍32万を,大山巌指揮の日本軍25万が奉天(現瀋陽)で撃破し,奉天を占領したものの,兵力・弾薬を消耗し尽くした。日本政府および軍首脳はこれ以上補給線を延ばすことを不利とし,講和への努力を始めた。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の奉天会戦の言及

【日露戦争】より

…他方,乃木希典(まれすけ)を司令官とする第3軍の旅順攻略も8月下旬から開始され,3度の総攻撃を含む攻囲戦は日本軍が6万名近い死傷者を出して,05年1月ようやく開城させることができた。3月の奉天会戦も日露両軍ともに最大限の兵力を結集しての激闘となり,日本側にとってこれ以上戦争を継続することは,軍事力のうえでも,戦費負担の面でも限界をこえるものになっていた。 この間,連合艦隊は旅順港口を封鎖してロシア艦隊の活動を抑制していたが,ロシアがバルチック艦隊を東航させたため,それとの決戦に備える必要から旅順の早期占領を要請した。…

※「奉天会戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android