大野新田村(読み)おおのしんでんむら

日本歴史地名大系 「大野新田村」の解説

大野新田村
おおのしんでんむら

[現在地名]酒田市大野新田

勝保関がつぼぜき村の南にある。観音寺かんのんじ(現飽海郡八幡町)の城主来次氏の臣堀大膳の次男兵助が、弟作助とともに寛永一二年(一六三五)新田五〇石を開発したのが始まりで、当初兵助新田と称した。その後新墾があったが、兵助家断絶後知行分は藩に属した(飽海郡誌)正保郷帳では田方一三三石余・畑方一九石余。明暦二年(一六五六)には高一四一石余(「検毛帳」飽海郡誌)。貞享四年(一六八七)草刈地の鷹尾たかお山萱山札九枚を所有し、米一斗八升を納入(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。享和三年(一八〇三)の家数二八・人数一六一(「村数家数人高控帳」斎藤文書)


大野新田村
おおのしんでんむら

[現在地名]佐屋町大野

北は鹿伏兎かぶと(現津島市)に接し、木曾川下流のデルタ地帯のため、何回か亡所・野跡となった地。「尾張志」に「中島郡長野村万徳寺所蔵の釈論第六巻聴書の奥書に宝徳第二庚午三月七日申之刻之間書写畢、於尾州海東郡富吉荘大野談議所と見えたり。四五百年以前よりありし里也。又大須真福寺の観音賢経の文明八年丙申三月廿八日の奥書にも海東郡富吉荘大野西方覚真坊と記せり」とあり、古くからの村であることが知れる。

「徇行記」によれば、概高四六一石余はすべて藩老職鈴木嘉十郎の給知。


大野新田村
おおのしんでんむら

[現在地名]柳津町大柳おおりゆう

周囲を山岳に囲まれ、南西大野村、西は小柳津こやないづ村。寛永(一六二四―四四)頃に大野村の者が細越ほそごえ村との境界を開発したので、四周の山林はすべて両村に属し、当村は田のみであるという(新編会津風土記)。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では高一二石余、免四分七厘余、家数四、竈四、男一一・女九、馬二で、小物成は糠藁のみ、蚕を養い、薪を伐って商売している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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