大野城跡(読み)おおのじようあと

日本歴史地名大系 「大野城跡」の解説

大野城跡
おおのじようあと

四王寺しおうじ山上に築かれた古代の山城。朝鮮式山城の一つ。現太宰府市太宰府・坂本さかもと地区、糟屋かすや宇美うみ町四王寺・炭焼すみやき原田はるだ地区、大野城市瓦田かわらだ乙金おとがな地区などにまたがり、国の特別史跡に指定されている。

日本書紀」天智天皇四年(六六五)八月条に「達率答春初を遣して、城を長門国に築かしむ。達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野及び椽、二城を築かしむ」とあって、長門国の城(名称不明)基肄きい(現筑紫野市)とともに築造された。達率(百済の官位)を有する憶礼福留・四比福夫といった亡命百済人が派遣されたとみえることから築造には百済系の技術が導入されたらしい。また同書同九年二月条に「又、長門城一つ・筑紫城二つを築く」とみえるが、これは同四年八月条の記事の重出とされる。大野城の築造は天智天皇三年に対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人・烽を設置し、筑紫に水城を築造したことと合せ(同書同三年是歳条)、周到かつ全体的な防衛プランに基づいて行われたものと想定される。

大野城跡
おおのじようあと

[現在地名]大野市城町

大野盆地の西端、独立小丘かめ(二四九メートル)上に位置する平山城。亀山城ともいう。天正三年(一五七五)八月、越前の一向一揆を平定した織田信長は、美濃国から穴馬谷あなまだに(現大野郡和泉村)を通って大野に侵攻した金森長近に大野郡の三分の二を与えたが、長近は翌四年頃築城を始め、その東麓に城下町を建設した。この地は北庄きたのしよう(福井城下)と美濃国を結ぶ美濃街道を扼する交通上の要地。

城郭は天守閣のある亀山山頂部を本丸とし、その東麓に三方を内堀で囲んで二の丸・三の丸を配した。

大野城跡
おおのじようあと

[現在地名]夷隅町大野 苗代台

夷隅川南岸に築かれた中世の城跡。伊北いほう城・大野双峰おおのふたみね城ともいった。一四世紀後半から一五世紀後半にかけて伊北庄を勢力下においた犬懸上杉氏の与党狩野氏の本拠とされる。また別に一二世紀から一三世紀にかけての築城とする伝えもあり、その主は平広常とも(藤平家文書)、伊北庄司常仲ともいう(「興栄記」妙泉寺蔵)。引田本顕寺過去帳には大野双峰落城とあり、高信伊北殿がみえるが、年代などは未詳。

大野城跡
おおのじようあと

[現在地名]海南市鳥居

海南市と海草郡下津しもつ町の境界をなす藤白ふじしろ山系の尾根上にあり、標高四三〇メートル。藤白城ともいう。山頂に五〇〇メートルの距離をおいて、土塁・空堀を備えた曲輪が二ヵ所あり、「紀伊名所図会」は東を大野城、西を藤白城と分けてよぶ。現在は大野城のほうに曲輪跡が残り、東西二三メートル、南北二八メートルのものが高所に、その北二メートル下に方一二メートルの付曲輪、さらに一メートル下って東西一二メートル、南北一二・五メートルの三段が残る。

大野城跡
おおのじようあと

[現在地名]香住町大野 城山

矢田やだ川の東岸、大野集落南東の標高一六〇メートルの阿瀬あせ山山頂に所在し、集落との比高は約一二〇メートル、城域は南北約一八〇メートル・東西約七五メートル。頂上部に南側に土塁をもつ主郭(東西二〇メートル・南北四〇メートル)を配置し、その北側に堀切・竪堀、南側に二の郭(東西一〇メートル・南北三〇メートル)・三の郭(東西五メートル・南北一〇メートル)を連郭式に配置している。各曲輪間は高さ三―五メートルの切岸をもつ堀切・竪堀で区画されており、二の郭には南側に土塁があり、縄張りは戦国末期の様相を呈している。

大野城跡
おおのじようあと

[現在地名]常滑市金山

宮山みややま城ともいう。常滑市の北、大野町の東南、青海せいかい山にあり、眼下に伊勢湾を見下ろす。鎌倉末期から室町期にかけて大野の周辺の地を支配した一色範光が宮山城を最初に築いたという。宮山には古くから榎木えのき寺や金蓮こんれん寺があり、城は金蓮寺の西ノ坊または北ノ坊の位置に築かれたという。応仁の乱後一色氏の勢力が衰えると、一色氏の家臣佐治氏が城主となった。佐治氏が大野に進出した最古の資料である明応六年(一四九七)西之口にしのくち神明社棟札には、「宮山之城主佐治伊賀守為永」とある。

連歌師宗牧は天文一三年(一五四四)当地方を訪れ、「まづ城のあたり見廻して侍るに、段々坂々の石畳、塵をも据えず、なかばの程にさざ波よする計の出水見えたり。

大野城跡
おおのじようあと

[現在地名]有明町大三東 大野名

戦国期にみえる城の跡。天正一〇年(一五八二)島原城主が龍造寺氏に呼応して有馬晴信に背くとVnoの城主らも反旗を翻した。しかし一五八四年三月龍造寺隆信が戦死した後、高来の諸城が降伏していき、その最後の城となったウノの城は、その守将が裕福ではなかったものの、地勢上から隆信によって安全で便利な城として貯蔵所とされたため、多量の火薬庫、大砲二門、米一千俵、砦を破壊する鉄の鉤、武具や兵器、また衣服を入れた多数の箱を置いていたという。しかしオオノは隆信が死ぬとすぐにドン・プロタジオ(有馬晴信)の味方となり、これらの武具・兵器は晴信のものとなった(同年八月三一日「フロイス書簡」イエズス会日本年報、「一五八四年日本年報」イエズス会日本年報)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「大野城跡」の解説

おおのじょうあと【大野城跡】


福岡県太宰府市太宰府、大野城市乙金、糟屋(かすや)郡宇美(うみ)町四天王寺にある古代の城跡。大宰府跡のすぐ北、標高410mの四王寺(しおうじ)山一帯に築かれ、尾根を伝って8.2km以上の土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にかかるところには堅固な石垣がある。663年(天智天皇2)の白村江の戦いで、唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れた後、亡命百済(くだら)人を筑紫(つくし)に派遣して大野に築かせた城で、大宰府の西に造られた水城(みずき)や、南の基肄(きい)城、東南東の阿志岐山(あしきさん)城と同様に、大宰府の防御が目的であった。百間(ひゃっけん)石垣と呼ばれる最大規模の石垣は全長約200mで、城門は4ヵ所開かれ、城内の高いところの平坦地には礎石群が残っており、桁行5間、梁間3間という総柱の建物跡が確認された。武具のほか炭化した米粒などが検出され、貯蔵用の高床式の倉庫であったと考えられる。烽火(のろし)台や望楼の跡もあるが、経筒なども出土し、774年(宝亀5)に外敵駆逐を祈願して山頂に建立された四王院の遺構も混在している。城域は四王寺県民の森として遊歩道が整備されている。1932年(昭和7)に国史跡に、1953年(昭和28)には特別史跡に指定された。JR鹿児島本線大野城駅からコミュニティバス「総合公園入口」下車、徒歩約1時間10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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