日本歴史地名大系 「大柳村」の解説 大柳村おおやぎむら 静岡県:浜松市旧長上郡・豊田郡地区大柳村[現在地名]浜松市大柳町鼠野(ねずみの)村の西に位置し、南で芳(ほう)川が東から南へ大きく蛇行する。西は八反畑(はつたんばた)村。延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図は、南に大柳ノ内新田を描く。大柳新田は鼠野村の南西、敷知(ふち)郡福塚(ふくづか)村の東にあたる。「和名抄」所載の長下(ながのしも)郡大楊(おおやなぎ)郷の遺称地と考えられる。中世は河勾(かわわ)庄のうち。永禄四年(一五六一)一二月一二日の今川氏真朱印状写(「随庵見聞録」岡部家文書)に「川勾庄大柳村」とみえ、今川氏真は大柳村百姓与三郎が年貢未進をしたため、肩代りした太田彦十郎にその名職を安堵している。元亀三年(一五七二)八月の太田政重置文写(随庵見聞録)によれば与三郎は安間を名乗っており、また彦十郎は実名を政忠といった。 大柳村おやなぎむら 兵庫県:加西市大柳村[現在地名]加西市大柳町中山(なかやま)村の西、天(あま)川上流域にある。北は西剣坂(にしけんざか)村、西は神東(じんとう)郡細野(ほその)村(現姫路市)。かつて集落は奥の谷間にあったが、交通が不便なためにしだいに現在地に移ったという。旧地を奥大柳(おくおやなぎ)といい、現在も数戸の農家がある。中世に王子(おうじ)村の人々が当地に入植して開拓したといわれ、当村の氏宮は西剣坂村の王子神社でなく、王子村の若一王子(にやくいちおうじ)大権現を勧請して鎮守としている。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は宝暦一三年(一七六三)上野高崎藩領から幕府領となるまでは東南(ひがしなん)村と同じ。安永六年(一七七七)から天明五年(一七八五)まで大坂城代・常陸笠間藩牧野氏領となり(天明五年「年貢免状」大柳町有文書など)、寛政一〇―一二年(一七九八―一八〇〇)、文政二―五年(一八一九―二二)には高崎藩領となる(「歳之当御条目」吉野町有文書、文政二年「年貢皆済目録」大柳町有文書など)。 大柳村おおやなぎむら 宮城県:遠田郡南郷町大柳村[現在地名]南郷町大柳木間塚(きまづか)村の北にある。鳴瀬(なるせ)川左岸の自然堤防上に形成された集落を中心にして成立。小野(おの)道が通る。寛文九年(一六六九)の遠田郡二郷村谷地小里村谷地之覚控(涌谷伊達家文書)には村境として「東ハ同郡谷地、南ハ木間塚村、西ハ練牛村、北ハ谷地」とある。正保郷帳に村名がみえ、田五二貫九二七文・畑一〇貫二〇六文、ほかに新田四貫八五六文。 大柳村おおやなぎむら 和歌山県:東牟婁郡古座川町大柳村[現在地名]古座川町大柳閏野(うるの)村の西方、古座川の南岸にあり、川を隔てて一雨(いちぶり)村と相対する。「続風土記」は「於也奈岐」と訓じ、一雨村の小名小柳に対する称とする。慶長検地高目録によると村高八四石余、小物成四斗六升七合。古座組に属し、「続風土記」は家数二三、人数四九で、村内に八幡宮と他定山正願(しようがん)寺(曹洞宗)があると記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by