御堂関白記(読み)ミドウカンパクキ

デジタル大辞泉 「御堂関白記」の意味・読み・例文・類語

みどうかんぱくき〔みダウクワンパクキ〕【御堂関白記】

藤原道長の日記。原巻36巻。14巻の自筆本が現存。長徳4年(998)から治安元年(1021)までの公私の出来事具注暦ぐちゅうれきに記したもの。当時の基本史料。平成25年(2013)、世界の記憶に登録。

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精選版 日本国語大辞典 「御堂関白記」の意味・読み・例文・類語

みどうかんぱくきみダウクヮンパク‥【御堂関白記】

  1. 日記。原巻数三六巻。藤原道長著。長徳四年(九九八)から治安元年(一〇二一)まで書かれ、そのほとんどが自筆本または良質の写本の形で現存する。変体漢文による公私生活の記録で、「御堂御記」「法成寺摂政記」「入道殿御暦」などとも称する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「御堂関白記」の意味・わかりやすい解説

御堂関白記
みどうかんぱくき

藤原道長の日記。『法成寺摂政記(ほうじょうじせっしょうき)』『御堂日記』『入道殿御日記』などともいう。道長が晩年、法成寺を建立し、御堂殿、御堂関白殿とよばれたことによる呼称である。しかし道長は、内覧、摂政(せっしょう)、太政(だいじょう)大臣にはなったが関白にはなっていないので、『御堂関白記』の名称は、正確にいえば誤りであるが、江戸時代の諸本に用いて以来通称となっている。平安末期には36巻が存したというが、現存の道長自筆本は、14巻(1年2巻)である。日記は具注暦(ぐちゅうれき)に書かれ、おおらかな彼の性格が筆跡に明瞭(めいりょう)に表れており、当て字、脱字、誤字をはじめ、重ねて字を書くところ、塗抹(とまつ)、傍書、省略、転倒なども多い。

 998年(長徳4)から1021年(寛仁5)までの日記であるが、1019年出家後は記事もきわめて少ない。そのほか、本書抄出した『御堂御記抄』と称する7種の断簡があり、そのなかに、『長徳(ちょうとく)元年記』の抄出も存することから、日記は現存より3年前の995年、道長の30歳より始まっていることが明らかであり、56歳で出家するまでの政治家としての生活を主に記した日記である(出家の当年、翌年、翌々年は、多少の記述がある)。一条(いちじょう)、三条(さんじょう)、後一条(ごいちじょう)の3天皇の時代にわたり、左大臣、内覧としての生活状態を事細かに書いており、1016年(長和5)外孫の後一条天皇が9歳で即位し、摂政となったときの儀式の次第、1018年、三女威子(いし)立后(後一条中宮)の儀の記述などはとくに詳しく、後者の儀に「余読和歌」とあるのが、「この世をばわが世とぞおもふ望月(もちづき)の……」の歌にあたる(その和歌は『御堂関白記』には書かれず『小右記(しょうゆうき)』にみえる)。また長女彰子(しょうし)(一条中宮)、次女妍子(けんし)(三条中宮)の立后の儀式、彰子所生の敦成(あつひら)親王(後一条天皇)の誕生の記述も詳細である。なお、道長を代表とする摂関政治は政所(まんどころ)政治ではないということが、『御堂関白記』を通読することからも明らかになる。

 現存の自筆本14巻は、京都陽明文庫に存し、同じく古写本12巻(1年1巻。記事の少ない2巻は数年分を1巻とする)も同蔵、ともに国宝に指定されている。古写本の筆者は道長の長男頼通(よりみち)とされていたが、根拠は少なく、頼通の子師実(もろざね)か師実の猶子(ゆうし)忠実(ただざね)かであろうといわれている。江戸時代の諸本も多い(陽明文庫、宮内庁書陵部、京都大学蔵など)。『大日本古記録』『日本古典全集』(活字本)、『陽明叢書(そうしょ)』(影印本)に収録。2013年(平成25)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産(現、世界の記憶)に登録された。

山中 裕]

『阿部秋生「藤原道長の日記について」(『日本学士院紀要』所収・1950・日本学士院)』『山中裕著『「御堂関白記」の藤原道長』(『平安人物志』所収・1975・東京大学出版会)』『山中裕編『御堂関白記全註釈(寛仁元年)』(1985・国書刊行会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「御堂関白記」の意味・わかりやすい解説

御堂関白記 (みどうかんぱくき)

摂政太政大臣藤原道長の日記。《入道殿御暦》《法成寺入道左大臣記》など多くの名称があるが,江戸時代に近衛家煕の新写本に用いられた《御堂関白記》の称が最も広く流布した。ただし道長は関白にはならなかったので,必ずしも正確な書名とはいいがたい。998年(長徳4)より1021年(治安1)の間の記事を伝えるが,中間を一部欠く。記載内容は比較的簡単であるが,特異な文体を用いて自由奔放に書きつけたという感が強く,誤字,当て字なども多いため,きわめて難解である。元は半年分を1巻として具注暦(ぐちゆうれき)に記した暦記が36巻あったと考えられるが,現在は陽明文庫に自筆本14巻,平安時代の古写本12巻が伝わり,また本記より抄出した《御堂御記抄》がある。特に自筆本14巻は,現存する日本最古の自筆日記として貴重である。昭和初年に自筆本の複製と釈文が刊行されたが,近年,古写本,御記抄も含めた複製本が《陽明叢書》として刊行されている。活字本は《日本古典全集》《大日本古記録》にある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「御堂関白記」の意味・わかりやすい解説

御堂関白記
みどうかんぱくき

左大臣藤原道長の日記。初めは『入道殿御暦』『御堂御日記』『法成寺入道左大臣記』などと呼ばれたが,江戸時代に近衛家煕が筆写した際に『御堂関白記』の題名をつけたため,その後流布し,一般的な日記名となった。しかし道長は関白にはならなかったので,正しい題名とはいえない。具注暦に書き込んだ半年分 1巻(軸)のものが 36巻あったらしいが,今日では自筆本は 14巻しか伝わらない。しかし,道長の孫の藤原師実のとき,自筆本 36巻を書写して 16巻がつくられ,12巻が伝えられている。したがって,両者を合わせ,散逸した自筆本や古写本の転写本を参照することによって長徳4(998)~治安1(1021)年の出来事を知ることができる。原本が京都の陽明文庫に伝存。『大日本古記録』所収。2013年,国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界の記憶に国際登録された。(→記録

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百科事典マイペディア 「御堂関白記」の意味・わかりやすい解説

御堂関白記【みどうかんぱくき】

藤原道長の日記。998年から1021年に至る日記。具注暦に記入された道長の自筆本14巻,平安時代の古写本12巻が陽明文庫に伝存。藤原氏全盛期の好史料。2013年世界記憶遺産に登録。
→関連項目神崎荘陽明文庫

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「御堂関白記」の解説

御堂関白記
みどうかんぱくき

「御堂御記」とも。藤原道長の日記。御堂殿とよばれた道長は関白に任官したことはないが,江戸時代以来この名称が流布した。998~1021年(長徳4~治安元)の記事が伝わる。道長の死後,摂関家の宝物として厳重に保管され,中世以降は近衛家に伝来。具注暦(ぐちゅうれき)に記した14巻(半年1巻)の自筆原本と古写本12巻(1年1巻)が陽明文庫に現存。当時の政界の頂点にいた人物の日記が,多量に自筆原本で残されていることは,史料的にきわめて貴重であるが,書き方は自由奔放で誤字も多く難解である。「大日本古記録」所収。「御堂関白記全註釈」もある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「御堂関白記」の解説

御堂関白記
みどうかんぱくき

平安中期,藤原道長の日記
全30巻。998〜1021年に至る14巻が現存。自筆の原本があり,藤原氏全盛期の重要な史料。漢文で書かれている。

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世界大百科事典(旧版)内の御堂関白記の言及

【陽明文庫】より

…1000年の間には応仁の乱をはじめ多くの危機に見舞われたが,おもなものは連綿と受け継がれ,明治期に入ってから一時京都帝大へ寄託された後,1938年に当時の首相の近衛文麿により現在地に財団法人として設立された。収蔵品には藤原道長の自筆日記《御堂関白記》全14巻をはじめ,国宝8点,重要文化財49点を含み,文書数十万点,和漢の典籍数万冊を蔵する。【竹上 深】。…

※「御堂関白記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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