天野康景(読み)あまのやすかげ

改訂新版 世界大百科事典 「天野康景」の意味・わかりやすい解説

天野康景 (あまのやすかげ)
生没年:1537-1613(天文6-慶長18)

徳川家康の部将。天野遠景の後胤といわれ,祖父遠房の代に家康の祖父松平清康に臣属した三河譜代の家柄である。康景は家康より5歳の年長で,幼少のころから家康に近侍辛苦をともにした。三河一向一揆のとき一向宗を改宗して家康方に付く。いわゆる三河三奉行の一人で公平無私な言行から〈どちへん(彼是偏)なしの天野三郎兵衛〉の異称がある。晩年,幕領民を殺害した自藩の軽卒を幕府に引き渡すことを拒否し,みずから領知を放棄し蟄居した。
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朝日日本歴史人物事典 「天野康景」の解説

天野康景

没年:慶長18.2.24(1613.4.14)
生年天文6(1537)
戦国・江戸時代前期の武将通称は又五郎および三郎兵衛といい,名ははじめ景能といった。徳川家康の小姓から,永禄8(1565)年には,三河平定の功を買われ高力清長,本多重次と共に三河三奉行に抜擢された。家康の江戸入城後,一時江戸町奉行に任命され,慶長6(1601)年には譜代大名となって駿河興国寺藩1万石の支配に当たった。同12年,築城資材を盗もうとした天領農民を康景の足軽が斬り,折から「百姓むざところし候事御停止也」という「定書」が出されて間もなくのことで,康景はこれをかばって逐電したために,改易された。

(小和田哲男)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「天野康景」の解説

天野康景 あまの-やすかげ

1537-1613 織豊-江戸時代前期の大名
天文(てんぶん)6年生まれ。徳川家康につかえ,三河(愛知県)三奉行のひとりとして民政に活躍。慶長6年駿河(するが)(静岡県)興国寺藩主(1万石)となる。12年藩の足軽が天領の農民を殺害した事件で,幕府の査問を拒否したため改易(かいえき)。慶長18年2月24日死去。77歳。初名は景能(かげよし)。通称は又五郎,三郎兵衛。
格言など】直をまげて,曲がったものに従うことは出来ぬ(改易で城をでるとき)

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