日本歴史地名大系 「子安村」の解説
子安村
こやすむら
子安村
こやすむら
現子安地区一帯に比定される。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領等注進状(金沢文庫文書)に「子安村」とみえ、田五町・畠四町であった。盛義は元応元年(一三一九)罪科により所領の三分の一を没収され、これらは元亨元年(一三二一)六月金沢称名寺に寄進されたが、所領の交錯などによりその打渡しがはかどらず、元徳元年(一三二九)ようやく実現した(同年一二月二日「平宗継請文案」同文書など)。この間の年貢不足分として当村の田畠在家ならびに村内海船すべてが称名寺に引渡されることになった(同二年五月二日「東盛義代貞安所領打渡状案」同文書など)。「末利下村西方」にあり(前掲平宗継請文案)、元徳三年三月一二日の道明請文(金沢文庫文書)によると定田三町八反三〇歩で年貢米八石四斗余、定畠三町四反二二〇歩で年貢麦三石九斗余、江藤内入道・藤丞・惣大夫入道・新大夫らの作人がいた。
子安村
こやすむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報