子安村(読み)こやすむら

日本歴史地名大系 「子安村」の解説

子安村
こやすむら

[現在地名]八王子市子安町一―四丁目・明神町みようじんちよう一―四丁目・旭町あさひちよう大和田町おおわだまち一丁目・同三丁目

八王子横山十五はちおうじよこやまじゆうご宿の南東部に隣接し、子安丘陵の先端部からあさ川に臨む低地に立地する。村の中央部を東流する山田やまだ川は浅川に注ぐが、浅川には甲州道中土橋(長さ八―九間)が架かる。田園簿に村名がみえ幕府領で、田二三六石余・畑二〇九石余。元禄郷帳では高六六一石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では旗本建部領四六四石余、同太田領一九一石余。


子安村
こやすむら

現子安地区一帯に比定される。嘉暦元年(一三二六)一二月二〇日の東盛義所領等注進状(金沢文庫文書)に「子安村」とみえ、田五町・畠四町であった。盛義は元応元年(一三一九)罪科により所領の三分の一を没収され、これらは元亨元年(一三二一)六月金沢称名寺に寄進されたが、所領の交錯などによりその打渡しがはかどらず、元徳元年(一三二九)ようやく実現した(同年一二月二日「平宗継請文案」同文書など)。この間の年貢不足分として当村の田畠在家ならびに村内海船すべてが称名寺に引渡されることになった(同二年五月二日「東盛義代貞安所領打渡状案」同文書など)。「末利下村西方」にあり(前掲平宗継請文案)、元徳三年三月一二日の道明請文(金沢文庫文書)によると定田三町八反三〇歩で年貢米八石四斗余、定畠三町四反二二〇歩で年貢麦三石九斗余、江藤内入道・藤丞・惣大夫入道・新大夫らの作人がいた。


子安村
こやすむら

[現在地名]上越市子安

子安新田の南東に位置する。ひるこ街道・まき道が通る。東方菖蒲しようぶ(現戸野目川)が流れ、西を子安用水が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「藤田分此外四方分こやす村 下」とみえ、本納三〇石六斗八升四合四勺・縄高一三九石二斗五升五合二勺、家一一軒・四六人。また当村北側に「藤田分此外四方分たか畠村」が描かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android