大和田町(読み)おおわだまち

日本歴史地名大系 「大和田町」の解説

大和田町
おおわだまち

[現在地名]新座市大和田一―五丁目・新座一―三丁目・中野なかの一―二丁目

武蔵野台地野火止のびどめ面の北西部が一段低くなった辺り、北東流する柳瀬やなせ川に解析されたやや広い沖積地にある。東は北野きたの村・野火止宿、南は菅沢すがさわ村、南西多摩清戸下宿きよとしたじゆく(現東京都清瀬市)、西は入間いるま坂之下さかのした(現所沢市)、北はたて(現志木市)川越街道南東から北西に通る。正安三年(一三〇一)五月二二日、沙門湛睿により「武蔵国新倉郡大和田郷普光明寺」で観経玄義分見聞集巻中が書写された(前山氏蔵「観経玄義分見聞集巻中」奥書)中世の大和田郷は新義真言宗(現真言宗智山派)普光明ふこうみよう寺を中心に集落が形成され、鎌倉街道ともいわれる古道が柳瀬川に沿って寺の傍らを通っていた。

天正一八年(一五九〇)徳川氏の関東入国に伴い家臣芝山正員の知行地となり、普光明寺の南側に陣屋が設置された(新座市史)。翌天正一九年五月、芝山に大和田村および入間郡中野村、水子みずこ(現富士見市)のうちで計三〇〇石を宛行う朱印状が下付された(「古文書集」内閣文庫蔵)。芝山氏は菩提寺を大和田に建立し、向善こうぜん(現廃寺)と名付けている。寛永一〇年(一六三三)には正員の傍系の孫芝山正知が二〇〇石を大和田のうちで宛行われた(「寛政重修諸家譜」など)。田園簿では大和田町とあり、田三四三石余・畑一一一石余、旗本柴山(芝山)正信(二五五石)・同正知(二〇〇石)の二給。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報