日本歴史地名大系 「安川村」の解説 安川村やすかわむら 富山県:砺波市安川村[現在地名]砺波市安川栃上新(とちあげしん)村の西にあり、庄川東岸と芹谷野(せりだにの)段丘崖の間および段丘上から庄東(しようとう)山地へと広がる。北は頼成(らんじよう)村、南は三谷(みたに)村(現庄川町)、西は庄川を挟んで太田(おおた)村。三谷村からの巡検使道は、段丘崖下の山下(やました)を通り徳万(とくまん)村の宝念(ほうねん)坂に通じる(三州測量図籍)。またその西方庄川東岸を井波(いなみ)道が通り、正保四年(一六四七)の「越中道記」によれば東保(ひがしぼ)村からは一里六町、三谷村へは九町の道程であった。「越中志徴」所載の郷村名義抄によれば、木曾義仲が上洛のとき当地の者が庄川の瀬案内を行ったのでたやすく川を越えたことから、義仲が当地を安川と名付けたと伝えている。野武士(やぶし)・正盛(まさもり)(正守)・宮村(みやむら)・檜田(しばた)・山下・二名(ふため)・湯根(ゆね)(遊念)の七村からなり、慶長八年(一六〇三)の物成割付状(「旧記三延宝初終八年」菊池家文書)に「安川七村惣百姓中」とある。 安川村やすかわむら 兵庫県:佐用郡南光町安川村[現在地名]南光町安川佐用郡に属し、小山(こやま)村の南、志文(しぶみ)川左岸の緩傾斜地と、後背の標高四〇〇メートル級の山地の麓に立地する。慶長国絵図に安川村とみえる。江戸期の領主の変遷は林崎(はやしさき)村に同じ。正保郷帳では田方二七三石余・畠方二〇九石余、旱損所、芝山有、小松はへ有と注記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by