安庭村(読み)あにわむら

日本歴史地名大系 「安庭村」の解説

安庭村
あにわむら

[現在地名]雫石町西安庭にしあにわ

雫石川南岸に位置し、対岸雫石村矢櫃やびつ川・戸沢とざわ川・みなみ川に沿う。北側を沢内さわうち街道が通る。戸沢村とも称したというが不詳。「雑書」元禄一二年(一六九九)八月一八日条に「雫石戸沢村」とある。正保国絵図に村名があり、高一〇八石余。寛文一一年(一六七一)の繋村肝入館市家留書(瀬川文書)では高三九〇石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高三一一石余とあり、七ヵ年平均の免は二ツ一分五厘七毛。元禄十郡郷帳に阿庭村とあり、〆高は田方三二六石余・畑方三八〇石余、当村へ南畑みなみはた村・大宿おおしゆく(鶯宿)村が入るとある。


安庭村
やすにわむら

[現在地名]長野市信更町安庭

東と南は岩倉いわくら山続きで山平林やまひらばやし村に接し、西から北へさい川がめぐる。犀川段丘の平坦地であり、東の岩倉山麓の北斜面に古宿ふりやど藤倉ふじくらの二集落がある。縄文期の安庭遺跡がある。

中世、山布施やまふせ郷に含まれていたが、戦国時代から上尾あげお城主平林氏領。慶長三年(一五九八)平林正恒が上杉景勝に従って会津へ移り、海津かいづ城主の領知に属す。元和八年(一六二二)松代領となる。慶長七年川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)では「百九拾石八斗五升弐合 安庭村」とある。


安庭村
あにわむら

[現在地名]盛岡市東安庭ひがしあにわ

南流する北上川東岸、その支流やな川の左岸に位置する。西は北上川を隔てて仙北町せんぼくちよう村、北は東中野ひがしなかの村。東安庭村とも記し、北上川沿いを遠野街道が通る。寛永一八年(一六四一)の検地高一七一石余(「検地高目録写」県立図書館蔵)。正保国絵図には安庭村、七七石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高一七四石余、七ヵ年平均の免は四ツ四分九厘九毛。元禄十郡郷帳による〆高は田一六〇石余・畑一七石余、松雑木立山がある。「邦内郷村志」では蔵分一四二石余・給分三七石余、馬四七。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二八。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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