安房村(読み)あんぼうむら

日本歴史地名大系 「安房村」の解説

安房村
あんぼうむら

[現在地名]屋久町安房

現町域の北東部に位置し、北東は船行ふなゆき川を境に船行村、南西中瀬なかばせ川を境に麦生むぎお村、西は山岳、東と南は海に面する。安房川の河口に発達した中心集落安房のほか、安房の北の松峯まつみね、安房の南西の春牧はるまき、春牧の南西の平野ひらのなどの小集落に分れる。文禄検地では吉田よしだ(現上屋久町)小村とされていたが(三国名勝図会)、のち本村となり、恋泊こいどまり尾之間おのあいだ・麦生・船行・黒石野こういしのの六ヵ村を小村とした(薩隅日琉諸郷便覧)。明暦三年(一六五七)頃の屋久島大絵図(県立図書館蔵)に村名がみえる。享保一一年(一七二六)検地帳(野村兼太郎氏収集文書)では高一五石余、水田はなく、四五家部、男一三二・女二一九、馬二〇。


安房村
あんぼうむら

[現在地名]鉾田町安房

北浦の北に発達した丘陵上に位置し、東は谷津を挟んで柏熊かしわくま村、南は鎌田かまた村。天福二年(一二三四)一〇月二一日の烟田秀幹譲状(烟田文書)に「烟田安傍堺北限堀柏熊沢大海庄司塚、南下立、西限向類河流内海限」とあり、鎌倉初期には常陸大掾氏一族の支配下に置かれていた。また延文二年(一三五七)の河内守幹連譲状(同文書)に「常陸国鹿嶋郡安房郷内新里村也、彼所者幹連重代相伝之所領也」とあり、南北朝時代に領主安房氏の開発により、郷内に新里村が誕生している。天正一九年(一五九一)佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「五百三拾石四斗 あんはう」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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