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藤原惺窩

美術人名辞典の解説

藤原惺窩

安土桃山・江戸前期の儒者。播磨生。冷泉為純の子。字は斂夫、別号に惺斎・北肉山人等。初め僧となり、のち儒学に心を傾け、朱子学を提唱する。徳川家康に招かれて進講林羅山らと親交する。元和5年(1619)歿、59才。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐せいか〔ふぢはらセイクワ〕【藤原惺窩】

[1561~1619]安土桃山・江戸初期の儒学者。播磨(はりま)の人。冷泉(れいぜい)家の出身。名は粛。字(あざな)は斂夫。初め相国寺に入ったが、のち還俗(げんぞく)。朱子学を究め、門人から林羅山松永尺五らを輩出した。著「四書五経倭訓」「惺窩文集」など。

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百科事典マイペディアの解説

藤原惺窩【ふじわらせいか】

江戸初期の儒者。近世儒学の祖とされる。名は粛(しゅく),字は斂夫(れんぷ)。播磨(はりま)の人。藤原定家(さだいえ)12世の子孫で,冷泉為純(れいぜいためずみ)の子。
→関連項目石川丈山印譜京学儒家神道儒教先哲叢談本佐録松永尺五

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原惺窩 ふじわら-せいか

1561-1619 織豊-江戸時代前期の儒者。
永禄(えいろく)4年生まれ。冷泉為純(れいぜい-ためずみ)の3男。はじめ京都相国寺の僧。儒学に傾斜し,慶長の役で捕虜となった姜沆(きょう-こう)に朱子学をまなぶ。のち還俗(げんぞく)。近世儒学の祖とされ,門人に林羅山,松永尺五(せきご)らがいる。元和(げんな)5年9月12日死去。59歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身。名は粛。字(あざな)は斂夫。著作に「寸鉄録」「大学要略」など。
【格言など】人を正しくせんとならば,まず我を正しくせねばならぬ理なり(「寸鉄録」)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらせいか【藤原惺窩】

1561‐1619(永禄4‐元和5)
江戸初期の儒者で,近世儒学の開祖とされる。名は粛,字は斂夫。号はほかに柴立子,北肉山人など。冷泉為純の子として,播磨国細川荘に生まれた。藤原定家12世の孫に当たる。幼時,生国で僧となり,18歳のとき土豪の襲撃によって父兄と家領を一挙に失い,これを機会に上京して相国寺に入った。ここで仏典とともに儒学を学び,しだいに儒学に専念するようになった。1593年(文禄2)徳川家康に《貞観政要》を講じ,96年(慶長1)儒学の師を求めて明国への渡航を企てたが失敗。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらせいか【藤原惺窩】

1561~1619) 江戸初期の儒学者。播磨の人。名は粛、字あざなは斂夫。初め相国寺の僧。のち朱子学を究めて、京学派をおこした。徳川家康に重んぜられ、門人に林羅山らがいる。仏教・老荘との融和を心がけた。著「惺窩文集」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原惺窩
ふじわらせいか

[生]永禄4(1561).播磨
[没]元和5(1619).9.12. 京都
江戸時代初期の儒学者。近世儒学の祖といわれる。名は粛,字は斂夫。惺窩,惺斎,北肉山人,柴立子 (さいりつし) ,広胖窩,昨木山人などと号し,居所を妙寿院と称した。藤原定家の子孫。7歳で仏門に入り,のちに京都相国寺で禅学,漢学を学んだ。天正 18 (1590) 年朝鮮からの国使の許筬らと交わり,朱子学に傾倒。文禄2 (93) 年徳川家康の招きで江戸に行き『貞観政要』を講じた。同4年明に渡航を企図したが悪天候のため失敗。慶長3 (98) 年,文禄・慶長の役の捕虜で朱子学者であった姜こうと伏見で会見し,その協力を得て『四書五経倭訓』を執筆,日本近世における学問研究の自由を主張した最初の書となった。主君に仕えず,晩年は京都北郊の市原野に退隠。弟子に林羅山,松永尺五,堀杏庵,那波活所,菅得庵,林東舟,三宅奇斎らの人材を輩出。著書に『寸鉄録』 (1628成立) ,『字訓解』『四書大全頭書』『逐鹿評』『千代もと草』などがあり,ほとんどが『藤原惺窩集』 (1938) に収められている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原惺窩
ふじわらせいか
(1561―1619)

安土(あづち)桃山時代の儒学者。名は粛(しゅく)、字(あざな)は斂夫(れんぷ)。播磨(はりま)国(兵庫県)の豪族に生まれ、父を戦(いくさ)で失い、京都相国寺(しょうこくじ)の僧となって首座(しゅそ)に上った。室町時代以降臨済(りんざい)禅徒の間では朱子学が学ばれ、〔1〕儒は禅に導く手段、〔2〕儒は禅に蘊(つつま)れている、〔3〕禅と儒は体用不二であるという考えを経て、〔4〕禅は真儒の境地(中庸)に至る捷径(はやみち)と考えられるに至っていた。惺窩はこうした禅儒の流れを承(う)け、中国に渡って明(みん)の新儒教を学ぼうとしたが果たさず、陽明学流で仏老を折衷する林兆恩(りんちょうおん)(1517―1598)の書を読んで、『大学』にいう格物致知を「非心(物欲)を去って自証し得た至善(心)を外界に明徳として顕現する」ことと解し、刑政をもって「乱逆無紀」の世に道徳的秩序を建立すべしと説いて、戦国大名のイデオローグとして赤松広通(あかまつひろみち)(1562―1600)の庇護(ひご)を得た。広通の死と同時に彼は仏教は「仁種を絶ち義理を滅す」と難じて還俗(げんぞく)したが、徳川家康の招きには門人林羅山(はやしらざん)を推薦し、洛北(らくほく)に隠棲(いんせい)した。彼の学は禅儒の域を離れず、彼の親しく交わった慶長(けいちょう)の役の捕虜、朝鮮の朱子学者姜(きょうこう)(1567―1618)のいうように「性は剛峭(ごうしょう)で倭(わ)において容(い)れらるるなき」人物であった。惺窩は通常、徳川朱子学の祖とされ、幕初の朱子学者松永尺五(まつながせきご)、那波活所(なわかっしょ)らを門人にもつが、自身は王陽明(おうようめい)、陸象山(りくしょうざん)の学をも折衷し、朱子学一辺倒の羅山から批判されても「異中の同(同理・同心)を見よ」と反論した。惺窩の書には『寸鉄録』(1606)『大学要略』(1630)のほかに『文章達徳録』『文集』がある。『千代もと草(ぐさ)』は彼の作と伝えるがさだかでない。[石田一良]
『石田一良・金谷治編『日本思想大系28 藤原惺窩・林羅山』(1975・岩波書店)』

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世界大百科事典内の藤原惺窩の言及

【姜沆】より

…97年豊臣秀吉の再出兵(慶長の役)のとき,藤堂高虎水軍の捕虜となる。京都伏見で幽閉生活を送り,赤松広通の援護のもとで相国寺の禅僧藤原惺窩と交友し,朝鮮儒学の成果や孔子祭典を伝える。姜沆は1600年に帰国したが,惺窩は後,儒者として仏教とたもとを分かつなど,日本の儒学の展開に大きな影響を与えた。…

【徳】より

…というのも,四書の一つ《大学》の冒頭の〈大学の道は明徳を明らかにするに在り〉の〈明徳〉の意味する内容をどう読解するかということが,儒者たちにとって徳の内容を確定するための必須の作業となったからである。江戸時代の儒学史のはじめにいつも名が挙がる藤原惺窩(せいか)にその典型例が見られる。〈明徳ハ君臣・父子・夫婦・長幼・朋友ノ五倫ノ五典ナリ〉(《大学要略》)と彼はいう。…

【林羅山】より

…1595年(文禄4)13歳で元服し,京都建仁寺で読書し,97年(慶長2)出家をすすめられたが拒否して家に帰り,独学で経学を修め朱子学に傾倒し,《論語集註(しつちゆう)》を講説し四書の加点を始めた。1604年藤原惺窩(せいか)に会い,多くの学問的影響を受けた。最初の対面時の問答が〈惺窩答問〉である。…

【本佐録】より

…また本書の〈天道〉観はキリスト教の影響の下に成立したことが指摘されている。2代将軍徳川秀忠の側近を務めた本多正信が秀忠のために書いたとされてきたが,内容上は,通俗訓戒書《仮名性理》(藤原惺窩著といわれる)に手を加え,正信著に仮託したものである。【高木 昭作】。…

※「藤原惺窩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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