定宗村(読み)さだむねむら

日本歴史地名大系 「定宗村」の解説

定宗村
さだむねむら

[現在地名]坂井町定旨さだむね

五本ごほん村の南にあり、北陸街道沿いに位置する農村。江戸時代の郷帳はみな定宗村と記すが、「越前国名蹟考」や地方文書中には定旨村と記すものもあり、明治以降は定旨の字を用いる。

村名は正保郷帳にみえ、田方六二石・畠方二五〇石余。これより前の慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では長畝下のうねしも郷に含まれていたと思われる。また「越前国名蹟考」には新庄しんじよう郷内の村として記される。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一〇年(一六九七)葛野藩領となり、その後再び幕府領となった。前記正保郷帳にみられるように畑が多く、西湫にしふけといった地字も残っており、田島たじま川沿いにはかなり低湿地もあった。

定宗村
さだむねむら

[現在地名]柵原町定宗

本山ほんざん川の上流部、大戸だいと谷の最奥に立地し、北東大戸上村北西羽出木はでぎ(現久米南町)。村の南部山中に天台宗の古刹本山寺がある。正保郷帳に村名がみえ、田四三石余・畑六三石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高・開高合せて一三石余、村位は中。「作陽誌」では家数一一、男三五・女三三。天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では家数二七、男五〇・女四四。津山藩森氏断絶後の領主変遷大戸下村とほぼ同様であるが、天保一五年からは津山藩領(美作国郷村支配記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報