日本歴史地名大系 「宝光明寺跡」の解説 宝光明寺跡ほうこうみようじあと 大分県:宇佐市旧長洲町地区金屋村宝光明寺跡[現在地名]宇佐市金屋 禅内金屋(かなや)の西部、駅館(やつかん)川に沿う字禅内(ぜんない)に寺門があったといい、寺域は禅内および川沿いの下(しも)から山手の山(やま)ノ上(うえ)にまたがっていたとみられている。付近には塔(とう)ノ下(もと)・施主堂(せしゆどう)などの地名も残る。近世には寺門跡を少し下った所に浜(はま)往還の船渡場があった。宇佐大宮司宇佐(到津)公連が元弘三年(一三三三)に奈良西大寺の道密を招聘し、江島(えしま)に開いた戒律道場宇佐宮大楽(だいらく)寺(のち宇佐に移転)の末寺として創建された。建武元年(一三三四)四月二一日後醍醐天皇は道密に対して綸旨(大楽寺文書)を発給し、「豊前国宝光明寺」を祈願所とし、寺領を安堵している。翌月九日には当寺門前を流れる駅館川の「自荒馬瀬至車瀬」間が殺生禁断とされた(「後醍醐天皇綸旨」同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by